Uh-LaLaミュージッククリップに込められた豊崎愛生さんからのメッセージとは(H27/8/11)
いつの間にかテレビ東京のお天気お姉さんまで務めている元トップアイドル声優・豊崎愛生さん13枚目のシングル、Uh-LaLaさん。各種メディアのインタビューにおいては「今作には珍しく伝えたいメッセージがない」「そのふわふわ感(意訳)をまさしく『うーらら』といった抽象的なタイトルで表している」といったように紹介されることが多かった。
言うまでもなく「マスメディア」というものは大衆向けの情報発信であって、販売戦略上どういったコンセプト(言うなれば「コンセプトがないのが今回のコンセプト」ということになる)で展開していくかは表面上統一されなくてはならない。従って豊崎愛生さんのすーぱー名番組おかえりらじおでさえもその真意は語られるところではなく、故にこそ我々には隠されたメッセージをしっかりと読み取り、受け止める責務がある。
思い出してほしい、桜が丘女子高等学校校歌[Rock Ver.]の間奏でなんと歌っていたのか。あるいはニラが大好きミラクル賃貸でもいい(そっちは「るーらら」ではないかというツッコミは甘んじて受け入れる)。FLASHスペシャルにおいて「けいおん!声優」として特集が組まれたのも記憶に新しいが、これらの意味するものはなんであるのか。
なんでもない曲をつくって飛ぶように売れればそれで構わないが、悲しいかな近年の低調な売れ行きは相変わらずといったところであり、ただ単に夏のワクワク感を歌い上げたナンバーという爽やかさとは裏腹な、なにか隠したかった(と同時に、伝えたかった)メッセージが込められているとすれば、こういったプロモーションにも合点がいく。まさしくUh-LaLaの歌詞であったり、そしてMVであったりに豊崎愛生さんはどういった意図を込めたのか、私なりに解釈していきたい。
本作MVの目玉としてはサビでサザエを焼くシーンが一つ挙げられている。これはソニーミュージック史上初の試みではないかとおどけていたが、それはどちらかと言えば「よそ向き」の話であって、いかに「遊び心」を散りばめたMVであるかを説明しようとするものである。
「遊び心」は「少しハズしている感」とも表現されていて、非常にわかりやすいのが「いれたてのコーヒー」がうんたんという歌詞の場面で明らかに麦茶が映っているこのシーンである。あるいはDVDの盤面がぐるぐるの渦巻き模様で、なにかと思ったら蚊取り線香をモチーフとしていたというのは、まさにその「少しハズしている感じ」といったところである。
トコトンふざけているようにもみえるその隠しテーマはいわばカムフラージュであり、ポップでロックな楽しい曲だと思って聴いているとうっかり流してしまいそうになる、あまりにも深刻なCメロの歌詞があった。
失うものなんて 何一つないんだ
思い切り囓った リンゴみたいに Fresh
京都アニメーション台頭以降のトップアイドル声優(当時)の栄枯盛衰は語るまでもなく、むしろ「多くのものを失った」のは誰もが知るところであり、終始笑顔でかき氷をつくっているだけにみえる本作MVにおいて、「何一つないんだ」の箇所だけが唯一、神妙な表情をしてこちらを向いている。
また、「囓ったリンゴ」というのは言うまでもなくアップル社のロゴマークであり、iPhoneの販売開始とけいおんの連載開始が同じ2007年、そしてソフトバンク社によるiPhone for everybody キャンペーンで日本国内に大きく普及したのも、またけいおんアニメ化による社会現象も同じ2009年である。
すなわち、「失うものなんて 何一つないんだ」というのは、平沢唯からの脱却であり、過去との決別である。「私は何も失っていない」とも読める歌詞からは常に一線で活躍してきた自負が感じられる一方で、突然輝きを失う線香花火も暗示的にMVに登場する。
あるいは2番サビ(Cメロ直前)の「素直なハートで」「いつの日か」「誰かの花になる」という歌詞に特に着目すれば、「取るに足らないものを失っただけ(よって失うものなどない)」という読み方の他に、「すべて失った(よって失うものなどない)」といった解釈もできない訳ではない。ところがそう解釈する必要がないのは、我々との「信頼関係」である。こんなにも深い歌詞を涼しげに歌い上げることができたのは、お互いに「分かっている」からこそできた、ある意味で「少しハズした」コミュニケーションに他ならない。
上の方で少し触れたFLASHさんの記事に、非常に衝撃的な一問一答がある。
Q4 過去に戻れるならいつがいい?
豊崎愛生さん「今朝ですね(笑)もうちょっと早起きしてお風呂にゆっくり入りたかった。あんまり過去は振り返らないんです。黒歴史も含めて自分ですから。」
この単語を使って大丈夫かと私は目を疑ったが、こうしてUh-LaLaさんを振り返ると両者には共通していることがあって、どちらも「今」を肯定しているということである。「私は何も失っていない」というのは、結果として「今」の豊崎愛生さんをみつめている我々に対しての強いメッセージを内に秘めている。
ガラスのシューズを脱ぎ捨てて
愛しい私と出かけよう
ここまで読んでいただければ、「ガラスのシューズ」がどういった比喩であるかは説明するまでもない。
いれたてのコーヒー
酸いも甘いも 飲み干してしまおう
そこにはもう、かつてのシンデレラガールはいないのである。ただ、いま確かに豊崎愛生さんはいて、そして我々がいる。
本件MVについて考察を始める前は、どうしてUh-LaLaをあと5年早く出せなかったのかと疑問に思っていた。その答えは、まさしく豊崎愛生さんの笑顔にあった気がする。「愛しい『私』」などという表現は、よく考えなくてもその裏にあるとてつもない自信がない限りはとても口に出せるものではなくて、それこそが豊崎愛生さんと我々の「信頼関係」の証なのである。言い換えれば、そのことに文句を言う人たちは既にどこかへ行ってしまった。豊崎愛生さんと、その楽曲を介した我々との世界には、もはやその両者しかいないのである。「でも、それでいいじゃない。今まで色々あったけど、『私』のことが好きなんでしょ? じゃあ一緒に出かけようよ」というのが、「愛しい『私』と出かけよう」という歌詞に込められたメッセージであると私は解釈し、うっかりこんな長文を書いてしまった。
本作Uh-LaLaのミュージッククリップは、最後の最後に非常に印象的な締めくくり方をしている。moraで400円程度でダウンロードできるのでできれば自身の眼で観ていただきたく、敢えて本投稿にはほとんど画像を引用していない(言うまでもなく著作権がうんたんという話もある)。よってネタバレを避けるために、その最後のシーンから想起される豊崎愛生さんの想いについてはまたの機会に書きたいと思う。
終わりだよー(o・∇・o)
【再掲:2015年08月11日(火)に前ブログで投稿】
【http://kpbpawa.wpblog.jp/2015/08/11/Uh-LaLaミュージッククリップに込められた豊崎愛生さ/】