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【連載予定(仮)】『あつまれ どうぶつの森』で読み解くMMT(現代貨幣理論)入門~2カブ目~

そうだね、MMTだね(o・∇・o)
こんばんは、けぴやよ~(o・∇・o)~

前回はこちら→1カブ目 

そんなこんなで、4日くらい前から読み始めた『MMT現代貨幣理論入門』についてですが、第1章の手前まで(「巻頭解説」~「序論」のp.50まで)読めたので備忘録として書いていきます。

巻頭解説
「現実」対「虚構」 MMTの歴史的意義

「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory もしくは Modern Money Theory)」。通称「MMT」。
200年に及ぶ経済学の歴史においても、これほどまでに革命的であり、そしてスキャンダラスな経済理論が脚光を浴びることは、そうめったにはない。
(東洋経済『MMT現代貨幣理論入門』p.1)

ということで「MMT」ってなんやねんというお話ですが、「現代(Modern)」における「貨幣(Monetary)」の「理論(Theory)」なんだそうです。「貨幣の理論」ってなんやねんっていうね。無人島に生きる我々としては「貨幣=ベル」でしょうが、とりあえず日本社会としては「円」が「貨幣」に当たるかと思います。その「理論」とはなんなんでしょうか。

なにが「スキャンダラス」なのかということで、どうやら主流派経済学さん(主流派経済学さんにとって「MMTは異端」らしい)は、どうやら「貨幣」の理解からして間違っているとのこと。本書によれば、「商品貨幣論」と「正しい貨幣論」は次のとおり。

否定された「商品貨幣論」
原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった「商品」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な「商品」が貴金属、特に金(きん)である。これが、通貨の起源である。
しかし、金(きん)そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量を持った金貨を鋳造するようになる。次の段階では、金(きん)との交換を義務付けた兌換通貨を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。最終的には、金(きん)との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす。
(東洋経済『MMT現代貨幣理論入門』pp.2-3)

そんなふうに習ったような気もするし、確からしいような感じがしますが、「依然として様々な説があるが、少なくとも、商品貨幣論のような素朴な貨幣論を未だに信じている社会科学は、もはや主流派経済学のみなのではないか。」と、なんだか辛辣な書かれようであります。
では、MMTでいう「正しい貨幣論」とはなんなんでしょうか。

まず、政府は、債務などの計算尺度として通貨単位(円、ドル、ポンドなど)を法定する。
次に、国民に対して、その通貨単位で計算された納税義務を課す。
そして、政府は、通貨単位で価値を表示した「通貨」を発行し、租税の支払い手段として定める。これにより、通貨には、納税義務の解消手段としての需要が生じる。こうして人々は、通貨に額面通りの価値を認めるようになり、その通貨を、民間取引の支払いや貯蓄などの手段としても利用するようになる。こうして、通貨が流通するようになる。
要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるからだというのである。
(東洋経済『MMT現代貨幣理論入門』pp.3-4)

無人島において「ベル」は法定通貨の感じはありますが、納税義務がないのでとりあえず日本社会に思考を戻しましょう。

なんと、個人的には卵が先か鶏が先かのような感じはあるものの、まあそれは置いておいて「通貨は納税義務の解消手段」であるというのは、正直そんなの聞いてないよというお話なのではないでしょうか。

序論
現代貨幣理論の基礎

百歩譲って、それが「正しい貨幣論」なんだとした場合に、果たしてなにが起こるのか、読み進めていきます。

MMTは、政府の財政は家計や企業のそれとはまったくの別物だと主張している。これは、ほとんどの人々にとって、身近で重要な信念に対する最大の異議申立である。我々は、「わが家の家計が連邦政府予算と同じような状態だったら、破産してしまう」「それゆえ、政府の赤字を抑制しなければならない」と常々聞かされているが、MMTはこのアナロジーは誤りであると主張する。主権を有する政府が、自らの通貨について支払不能になることはあり得ない。自らの通貨による支払期限が到来したら、政府な常にすべての支払いを行うことができるのである。
(東洋経済『MMT現代貨幣理論入門』p.39)

思い返すと「国民一人当たりの借金は○百万円」みたいな話はかつてよく聞いたような気がするところです。

それどころか、政府が支出や貸出を行うことで通貨を創造するのであれば、政府が支出するために租税収入を必要としなのは明らかである。さらに言えば、納税者が通貨を使って租税を支払うのであれば、彼らが租税を支払えるようにするために、まず政府が支出をしなければならない。
(東洋経済『MMT現代貨幣理論入門』pp.39-40)

「明らかである」って……これは個人的には「地動説」と「天動説」のような話なのではないかと感じられてならない。

家計予算のアナロジーにだまされてしまい、「政府が支出をする前には、家計が租税を支払うことで『収入』が必要である」という議論が適切であるかのように思えてしまう。ところが、現実はまったく逆である。家計が租税を支払えるようになるには、その前に政府が支出をする必要があるのだから!
(東洋経済『MMT現代貨幣理論入門』p.41)

とりあえずまとめ

やっぱりとりあえず41ページまで(その後は銀行(=民間による信用創造)の話も絡んでくるので一旦あと回し)読んだ感じをまとめてみます。

1.人々がお札という紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるからである。
2.政府の財政は家計や企業のそれ(赤字や黒字)とは別物である。
3.政府が支出するために租税が必要なのではなく、家計が租税を支払うために、政府は支出する必要がある。

ということで、ここまで読んだ限りでは政府はじゃぶじゃぶ支出していい、或いはじゃぶじゃぶ支出するべき、ということになるのでしょうか。だいぶブログを書くのも飽きてきたのでもし後述する場合は、政府に縛られたくない皆さまのために「銀行」なる民間のお金を擦る機関(語弊があるかも)が出てきます。
これはなにかというと、いわゆる「民主主義」の高揚に伴い、政府を弱体化させてきた成果というのが現代日本、まあ世界の先進国も似たような状況なんでしょう。仮に上記までの「MMT」が世界の真理なんだとした場合、下記のような問題点が出てきます。

・政府はいくらでも支出を増やせるとなれば、政府から直接調達できる業種(それこそ社会基盤関係=道路・河川など防災・土木関係は本邦においていくらでも(スーパー堤防のような)やることがある)は不況知らずということに。
・それは、それ以外の(政府から直接請け負わない)仕事を生業としてきた業界からすれば面白くはないことでしょう。ですがお金は天下の回りもの、政府がどこかに支出したお金は社会経済を巡っていくのでは。
・いずれにしても、社会インフラ・ライフライン系が強くなりすぎる(政府がいくらでもお金を出してくれるので)ので、仮に政府が赤字になるとけしからんというのであれば、それは民営化しよう(JRや電電公社、最近でいえば郵政民営化など)という発想に結び付いたのはMMTが人口に膾炙していなければ仕方なかったのでは。
・そしてこの情報化社会に、MMTを前提とした社会設計(政府はいくらでも支出できる)へと今から転換するのは、果たして多くの人は納得できるのか。(それは政治家も含めて、今ある日本のルールの下で各自が自らの幸福を追求してきた訳であって、ルールが変わってしまうのはやや革命的に過ぎるのではないだろうか)
・仮にMMTが多くの痛みを伴った結果として、仮にそれを日本だけ先行してしまった場合には、日本だけ経済がうまく回ってしまう、それは、戦争であある。すなわち、政府がいくらでも支出できるのであれば、仮想敵国はすぐ近くにいるような感じはあるので、より多くのお金が回る先は国防である。軍備である。
・でもそれは単に、日本だけが「実験場」になる必要はなく、世界全体で舵を切ればいい話なのでは……?

ちょっとまとまり切れませんでしたが、おかえりらじおさんが始まるので終わりにします。
続くやよ~(o・∇・o)~

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