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ニュー新橋ビル-第1話「あの日のオムライス」

※この作品は2024年1月に開催された
ニュー新橋ビル商店街・秋葉原駅前商店街振興組合主催のイベント
「しんばし×アキバ カコ↓イマ↑ミライ展〜過去を知って、今を感じて、未来を描く〜」のために書き下ろしたものです。
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「あのオムライスをもう一度食べたい」
 病床の老人の、それが最後の望みだった。
 彼はその人生で巨億の富を築き上げていた。だけでなく、多くの人々を助け、育て、尊敬と信頼を一身に集めていた。そんな人々が彼のために奔走することとなった。かの時代のかの店のオムライスを、今、完全再現するために。

 様々な種類の小さな店舗が市場のように並ぶ雑居ビルの一角。カウンターだけの小さな洋食堂。一日じゅう行列が絶えることがない人気店だった。評判を聞いて遠くから訪れる客もいたが、メイン層は近隣の企業の従業員で、ほぼ毎日ここにやってくるというサラリーマンやOLも多かった。若かりし頃の彼は、そんな常連の一人だった。昼時の味覚は、彼の最も大切な思い出だった。
 まず、年代が特定された。老人が20代の頃。2020年代の中盤だ。
 正式なレシピは残っていなかった。調理方法は当時の店主の男性の頭の中にあった。長年の経験として、脳と両手に記憶されていたのだ。
 それを正確に再現する試みが始まった。
 材料については、税務記録を遡ることで、当時のこの店の取引データを明らかにすることができた。そこから、仕入先から品名までが正確にわかった。卵も米も、現在も同地域で同品種のものが生産されていて、容易に入手することができた。
 調味料や調味油についても、幸い全メーカーが健在だった。販売終了になっている製品もあったが、原料や製造方法の記録から、全く同じものを再生することができた。
 当時のありとあらゆる資料が検索され、発掘されたのだった。同店はB級グルメ記事の常連だった。オムライスは特に推されていて、多くの食通ライターが詳しくその味をリポートしていた。店主のインタビューが掲載されている記事もあり、味付けのこだわりについて、曖昧だが有用な言葉を拾うこともできた。
 テレビの情報番組にもたびたび登場していた。そこで、店主が腕をふるっているシーンも、わずかだが流れていた。その独特なリズムがAIによって検証され、記録されていないその前後の動きもシミュレートされた。使用されていたフライパンや菜箸も判明した。
 当時のネットの書き込みも、徹底的に洗い出された。一般の人々が、様々な角度からスマホで撮影した写真や動画をアップしており、同時に思い入れたっぷりのコメントを寄せていた。
 全ての材料が、そしてプロセスが、100分の1グラム、1000分の1秒の正確さで特定された。卵を落とす角度、ガスコンロの炎の強さ、フライパンの動かし方とその速度まで、正確無比なデータが揃った。もちろんそれを人間が再現することは不可能だが、高性能のロボット調理人にそのデータが入力され、実行された。
 はたしてついに完成したのだ。あの懐かしの令和時代の、あの名店のオムライスが。

 老人の命の灯火は日に日に弱まっていた。今はもう意識も混濁して、一日のほとんどをうつらうつらと過ごしていた。
 そのリクライニングがゆっくりと起こされた。眼の前に、湯気を立てたオムライスが置かれた。老人はゆっくりと目を開けた。卵の焦げ目も、チキンライスの具と米の比率も、そして付け合せのナポリタンやキャベツのせんぎりの仕上がりも寸分違わず往年のまま……のはずだった。
 ベッドを取り囲むのは、家族のほか、オムライスプロジェクトの主要メンバーだった。皆、息を詰めて老人を注視していた。
 見てほしい。香りを感じてほしい。そして一口でも良いから食べてくれたら……。
 しかし。目を見開き、息を吸って吐いてから、老人は困ったように微笑んだ。明らかに落胆の表情だった。
 やがて顔を上げた。意識は回復していた。自分が置かれた今のこの状況を、ちゃんと理解していた。その場の全員に対して、こう言った。
「みなさん、ありがとう。私のためにがんばってくれて」
 その声に喜びはなかった。
「申し訳ないが、これはそんなに簡単なことではなかったようだ。このオムライスは、どうも違う。気持ちだけ、受け取ったよ」
 彼の失望は明らかで、それはベッドを取り囲む人々に伝染していった。次々とため息が漏れた。
「待ってください」
 片手を上げて声を発したのは、プロジェクトメンバーの中で最も若いスタッフだった。データ収集を担当したエンジニアだ。
 一歩前に出て、老人に近づいた。
「よろしければ、試してみていただきたいものがあるんです。オムライスを作るために集めた膨大な資料で、もう一つ、作っていたものがあります」
 彼は両手で大事そうに、ゴーグルを持っていた。
 老人は頷いた。
 若者は老人の顔にそっとゴーグルを被せた。

 眼前に、とつぜん、活気と喧騒が立ち上がった。
 店内の風景が広がった。あの洋食店だった。
 自分はカウンターに座っていた。その向こう側で、数人の男女が忙しく立ち働いていた。
 いちばん奥にいるのが店主のおやじさんだ。
 かんかんかん。フライパンがコンロに当たる音。
 じゅばぁっ、と、卵に火が通る音。
 ぱちぱちぱち、と、強火にさらされた米粒が弾ける音。
 それらに混じって、巨人戦の実況が聞こえる。壁の上方に設置された小さなテレビで、野球中継が流れているのだ。
 厨房部分の壁はステンレスになっていて、古いけれどよく磨かれている。そこにオレンジ色の蛍光灯が反射している。
 時折もわっと白いもやが漂う。素敵な香りの温かい湯気だ。
「いらっしゃい」
「ご注文は」
「はい、奥の方にお冷やね」
「オムライス2丁、そちらさんと、あちらさんね」
 とても大きいが、しかし険のない声が飛び交う。
 カウンターにはずらりと客が並んでいる。はふはふと息遣いが聞こえる。そっと左右を窺うと、オムライスや、あるいはハンバーグやスパゲティを夢中で食べる人々がいる。
 自分もそんな幸せな客の、一人なのだ。
「はい、オムライスです」
 カウンターの上段に大皿が置かれた。両手を伸ばして皿を受け取る。
 そうだ、この空間。この喧騒。この熱気。それら全てがオムライスの魅力だった。自分はここで栄養だけでなく、別のものも、もらっていた。
 さあ、今日も昼飯だ! 至福の時間の、始まりだ。
 手に持ったスプーンに自分の顔がちらりと映る。ふさふさとした黒髪をきちんと分けている。
 今、何を考えていたんだっけ? ……なんだか遠い未来のことを妄想していたような気がする。
 まあいい。
 ケチャップをつぶし、こんがりと焼き目のついた卵の表面にスプーンを差し込む。全神経を集中して、一口目を頬張る。
……最高だ……
 毎日来ても、毎日最高だ。この店のこのオムライス。
 ふと視線を感じた。
 隣をちらりと見た。見知らぬ老人が、親しみのこもった目でこちらを見ていた。彼の前にも、オムライスが置かれていた。
 老人はにっこりと笑った。
 応えて会釈した。すると老人は言った。
「おいしいですよね」
「は、はい!」
 この老人も常連なのだろう。
「この店のオムライスは絶品だと思います、本当に」
 老人は頷いた。
「よく味わいましょう。そして、よく覚えておくといいですよ、この味を、この風景を」

「ありがとう。完璧だ。完璧なオムライスだった」
 外したゴーグルを受け取った若者に、それから周囲の人々にそう言った。心の底から満足したことが、表情と声に現れていた。
 そして彼はやすらかに目を閉じた。

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