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父・進(すすむ)永眠のお知らせと御礼

私、神津ゆかりの実父・大島進(昭和13年生・栃木県黒羽町(現・大田原市)出身が1月20日、永眠しました。

50年以上、保険外交員として働いて築いてきた人脈と、持ち前の明るさと人付き合いの良さであちこち出かけては、楽しそうに人生を過ごしておりました。

実家には独り者の長男(ゆかり弟)が同居していますので、まるっきりひとり暮らしではありませんが、何かと世話をやいてくれた妻(ゆかりの母)が17年前に先に逝きましたものですから、娘としていつも遠くの地から心配していました。

父は、もともと心臓に持病があり、人工弁やペースメーカーが入れており、また、脳こうそくも何度も起こしていましたが、ここまでなんとか介護のお世話を受けずに暮らしていました。

実家は松本から車で行くと約4時間ちょっとくらいです。東北新幹線では「宇都宮駅」のひとつ福島よりの「那須塩原」駅です。

コロナのこともあり、ここ2年で1度しか実家に帰れませんでした。

昨年3月、大学進学のため、東京に引っ越した孫(ゆかり息子)と一緒に里帰りしたのが最後になりました。

そのとき撮った3ショットを載せておきます。

別れ際、「また来るね」を言いながら、(もしかしてこれが最後になるかもしれないな)とふと思ったことが思い出されます。

昨年12月28日朝、家の台所で倒れ、緊急搬送された父。

人工弁を入れた心臓で血栓が大量生産されていたのか、大小さまざまな血栓が脚や脳の血管を詰まらせてしまいました。

ドクターヘリで運ばれた先の病院(自治医科大学病院)で緊急処置され、命に別状はなかったものの右半身やことばに麻痺が残ってしまいました。

こちらが言っていることはわかっているようで、目も見えているようでしたが、ことばを発することができなくなってしまいました。

父の表情を勝手に解釈して「いたい?」「背中かゆい」「大変だったね」と声を掛けていましたが、父が言いたいことに反応してあげることができませんでした。

話ができない、会話ができないというのはなかなか辛いものですね。

年が開けて、少しずつリハビリを開始し、別のリハビリ病院に転院する話も出ていた矢先、思いも寄らない部位が急変してしまいました。

病名は「非閉塞性腸管虚血」。大腸、小腸、十二指腸などの消化器系内臓がすべて機能不全になってしまいました。

原因は不明で、救命は不可、緩和治療しかできないと。。。

1月19日、血圧が低くなっているという知らせに、慌てて車で飛んで行き、1月20日の夜中2時に病院に到着、父に対面しました。

「ゆかりが来たよ」との声に、目に生気が戻り、「うんうん」と反応してくれました。

その後、手を握ったり、手足をさすったり、耳たぶを刺激したり?しながら付き添うことができました。

その日の午後、ベッドサイドのモニターが示すいくつもの数字が、ゼロになりました。

父は眠るように、息を引き取りました。

私と弟と二人でバタバタと父を家に連れて帰り、23日に通夜、24日に葬儀と、無事父を送ることができました。

昭和13年生まれの父は、スマホもパソコンも縁の無い人生でしたが、多くの人々に助けられながら83年の生涯を生ききりました。

中学卒業と同時に、親戚筋の靴製造販売店で働き、東京で母(富山県出身)と出会い結婚、栃木に戻り新婚生活をはじめました。

仕事は、当初高級靴やハンドバックなどのセールスをしていましたが、生命保険のセールスもはじめました。

もともと話が上手なのか、人なつこい笑顔でお客さんを増やしていったそうです。

私が高校生のころか、外交員労働組合の支部委員長や書記長も務めてて、全国を飛び回っていました。

私が東京の短大に進学したり、その後アメリカの大学に編入し留学するとき、結婚を報告するとき、選挙に挑戦するときなど、節目にはいつでも応援してくれました。

いのちははかないものであり、父の肉体はもうこの世にはありませんが、いのちは永遠のものになりました。

明日のいのちが、どうなるとも知れぬのは、高齢でも若年でも同様。

大切な人と話せるうちに話しておく、大事なことは書いて知らせておく、教えてもらっておく、そしていのちの仕舞い方〜葬儀はどうする、財産は?など家族のエンディングノートを考えておくことをオススメします。

最後になりましたが、ご鄭重な弔電やあたたかいおことばをいただきましたこと、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

令和4年1月27日 神津ゆかり