尾形百之助のラスト(個人的解釈)
ゴールデンカムイの310話が掲載されてからずっと考え続けていたことがようやくまとまりました。
尾形百之助のストーリー解釈が複雑すぎて、全然合ってるのかわからなくて…。
もしかしたら間違っているかもしれないけど、とりあえず備忘録。
310話で渦に巻き込まれた尾形の表現は「鶴見篤四郎」と「花沢勇作」のどちら側を選ぶかという表現だと解釈しています。
そして、尾形は鶴見中尉を利用して地位を上げることではなく、自分で自分の幕を引くことを選んだ。
罪悪感を芽生えさせる(植え付ける)ことのできた勇作の勝ちという決着だったと私は解釈しています。
そもそも尾形と宇佐美はそれぞれの過去が似たようなストーリー構成で書かれていたんですよね。「智春」と「勇作」は同じ役割。
鶴見が智春と勇作を特別視するモーションをすることが宇佐美と尾形の嫉妬のトリガーを引いた。
それに気づくまでにだいぶ時間がかかってしまいました。
鶴見中尉は全部わかってやっていたから、304話で尾形のことを理解しているように答えられた。
尾形は鶴見の上を行っているようでいて、結局は掌の上で転がされていたんですね。鶴見中尉、本当に怖い人だなぁ…。
ただ、宇佐美と尾形は「アイヌ犬」だったわけです。
宇佐美は「忠誠心の強さ」が出たけど、尾形は「嫉妬深さ」という裏目が出てしまった。
鶴見中尉の目論見の成功例はたぶん宇佐美だけでしょう。
まあ、それも完全な成功とは言えないですね。尾形に壊されてしまったから。
多頭飼いは難しいって話かな。それとも、一夫多妻は妻が憎みあうって話だろうか。
宇佐美は罪悪感を持たなかったけど、尾形は罪悪感を抱いた。
これは、尾形の中ではそれだけ勇作の存在が大きかったという認識でいます。
尾形が勇作に罪悪感を抱いたのは、勇作が「尾形が本当に欲しかったもの」を与えてくれたことに気付いたから。
尾形が本当に欲していたことは「自分だけを見てくれること」。
それが幻覚内の「勇作だけが俺を愛してくれたから」というセリフにつながったのだと思います。
「ゴールデンカムイ」はキリスト教モチーフが多いと噂されていますが、私もそのように感じています。
花沢幸次郎が「神」、花沢勇作が「イエス・キリスト」、尾形が「ユダ」、鶴見が「(神に成り代わろうとする)悪魔」。
キリストは「贖罪」のために神からつかわされたとされているんですよね。「旗手」となるように育てられた花沢勇作と重なります。
耳に痛いことを言うのが「神」。
美辞麗句や甘言を並べるのが「悪魔」。
「神」に失望して「悪魔」に魂を売ったが、「キリスト」を愛してしまったから罪悪感を抱いた。
そういうストーリーだと考えると自分の中ではスッキリします。
私は尾形のことを別に好きなわけじゃないんです。
絶対仲良くなれないタイプ。私は勇作さんに憧れていたい。
でも、複雑でミステリアスなキャラクター造形をしているために、目が離せなくて思考のキャパシティーを占有されてしまう。
本当に魅力的なキャラでした。
ちなみに、映画『ゴールデンカムイ』は見る価値あります。
主人公サイド推しなら、なお。
実写映画ということで不安もありましたが、めちゃめちゃ楽しめました。
アシㇼパさんがリアルアシㇼパさん。かわいい。