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数えた羊たちは、その先で何をしている?『儚い羊たちの祝宴』 作:米澤穂信

Xのフォロワーさんにフォロワーさんにお薦めしていただいたので、米澤穂信先生の『儚い羊たちの祝宴』を読みました。

夢想家のお嬢様たちが集う読書サークル「バベルの会」。夏合宿の二日前、会員の丹山吹子の屋敷で惨劇が起こる。翌年も翌々年も同日に吹子の近親者が殺害され、四年目にはさらに凄惨な事件が。優雅な「バベルの会」をめぐる邪悪な五つの事件。甘美なまでの語り口が、ともすれば暗い微笑を誘い、最後に明かされる残酷なまでの真実が、脳髄を冷たく痺れさせる。

https://www.shinchosha.co.jp/book/128782/

私がこれまでに読んだことがある先生の作品は「古典部シリーズ」の最初の3作、「小市民シリーズ」の巴里マカロンまで、そして『折れた竜骨』になります。
私の米澤作品へのイメージは、10代の少年少女を使ったライトハードボイルドです。ハードボイルドなのにライトというと矛盾していますが、それがライトノベルのいわゆる「やれやれ系」と合致し、『氷菓』がアニメ化であれほどに人気が出たのかなあと思っています。
コメディな、アニメチックなキャラクターが出てきていても、どことなく温度が高くなりすぎないバランスで物語を描いている気がします。

前述の「古典部シリーズ」と「小市民シリーズ」は、現代日本での「日常の謎」と呼ばれるジャンルでもあります。言い換えれば、人が死なないミステリー。誰かの失踪とか、嘘を暴くとか。
シリーズもので本格ミステリーをすると、名探偵コナンよろしく「周りでどんだけ殺人起こるんだよ!」と言うつっこみを一身に受けなければいけませんが、日常の謎ではその必要がありません。

今作『儚い羊たちの祝宴』では人が死にます。めっちゃ死にます。
全部で5つの短編からなる小説ですが、死人の数は5どころではありません。
まあ物騒。
その物騒を可能にしているのは、「あの時代の日本の上流階級」という舞台設計でしょう。
具体的にそれがいつのことかというのは一切明示されていないので、現代の可能性も十分あります。加えて、全ての話が同時期であるかも怪しいです。ですが、強く意識された「上流階級、女が大学で学ぶことに対する偏見、登場人物が読む小説を通して、なんとなく20世紀中頃から後半を思わせる雰囲気があります。
現代を生きる我々にとって、「あの時代の日本の上流階級」というのは絶妙にファンタジーで絶妙に現実です。どれだけ科学捜査の手が届かなかろうが、警察を無視できようが「あの時代の日本の上流階級」なら、あり得るだろうと思わせてしまう。
これが18世紀や19世紀になってしまうと、教科書的な昔の印象が強まる気がします。どれも地続きには変わらないはずなのですが。

具体的なその中身のお話については、読んでもらえば良いと思うので割愛します。色々な方の感想を見ると、中でも2つ目のお話が好きだったとか、4つ目が1番良いといったことが書かれています。
ですが、個人的に1番うつくしいなと思ったのは、この短編たちを1冊の本たらしめるためのその構成でした。

1つ目のお話は、1人の侍女の日記から始まります。
見た目も中身も全てが完璧な吹子お嬢様の幼い頃、そのお目付役としてやってきた彼女は、お嬢様に強く憧れ、その夢の世界を胸に生きます。日記はお嬢様との思い出から始まり、お嬢様と自分との時間を奪う「バベルの会」へのちょっとした嫉妬が織り交ぜられます。
ですが、そもそもなぜその「バベルの会」に集う女性たちは「バベルの会」
に集い、夢想するのでしょうか

夢見ずとも、多くのことを叶え、現実にする力が彼女たちにはあります。
そんな疑問が提示される5つ目のお話もまた、日記を中心に物語が進みます。その夢を見ていなかったことで「バベルの会」への参加が許されず、夢見る頃にはその思いが黒い感情へと変化してしまった少女が、その著者となります。

「バベルの会」という、その実態がほとんど描かれない倶楽部が仄めかされるという共通点のみで『小説新潮』に掲載された4篇の連載。それを1冊の小説に仕立て上げたこの書き下ろしの最終章は、さすがの一言です。

人の夢と書いて儚いと読みます。
人々が夢を見たいと数えた羊たちは、その先で何をしているのでしょうか


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