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スヤスヤクラブとファイト教
あの『ファイト・クラブ』の原作小説を読んだという、そういう話。
池田 真紀子 さんが翻訳されたハヤカワ文庫のやつである。
おれを力いっぱい殴ってくれ、とタイラーは言った。事の始まりはぼくの慢性不眠症だ。ちっぽけな仕事と欲しくもない家具の収集に人生を奪われかけていたからだ。ぼくらはファイト・クラブで体を殴り合い、命の痛みを確かめる。タイラーは社会に倦んだ男たちを集め、全米に広がる組織はやがて巨大な騒乱計画へと驀進する――人が生きることの病いを高らかに哄笑し、アメリカ中を熱狂させた二十世紀最強のカルト・ロマンス
上裸のセクシーなブラット・ピットが殴り合ってる映画版が非常によく知られている。実際、私も映画から知り、今回の小説版を読んでみることにした。
数ページの短い小区切りがたくさん続いていくので、ふとした時間にする読書に非常に向いている。
90年代の作品だが、あらすじ以上のストーリーのネタバレは伏せて書くつもりでいる。そんな必要ある?と思う方もいるかもしれないが、私がこの映画を見たのは去年の夏が初めてだった。
スヤスヤ・クラブ
最近X(旧Twitter)で、スヤスヤ教というものが少し話題になっている。該当のポストを見た人もいるかもしれない。
簡単に言うと、何か行きたくない用事や長引きそうな状況の際に「すみません宗教上の理由で」と言って断るために、十分な睡眠が何よりも大切だという教義のみを掲げた宗教団体を作ろうというものだ。
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つまりは冗談宗教やパロディ宗教と呼ばれるようなものである。
もともとは、それをポストした方も、その言葉が軽くウケれば良いなあというぐらいのものだったろう。しかし、昨今疲れた人が多いのか、X(旧Twitter)上に疲れた人が集まりやすいのか、その言葉は非常に多くの反響を呼びつづけている。
どうやら作者さんがnoteをされているようなので、気になる方はこちらをどうぞ。
この一つの教え・ムーブメントの広がりの真っ只中、私は『ファイト・クラブ』を読んでいた。
上述のように、『ファイト・クラブ』は主人公が不眠症、寝られないというところから物語が始まる。つまらないが給料のいい仕事で手に入れた立派なアパートと、そこに敷き詰めた北欧家具。そんな"完璧"な人生への絶望。
そんな主人公は、ひょんなことから出会ったタイラー・ダーデンの提案で、本気の殴り合いをすることにした。殴り合いを目的とした殴り合いだ。相手への怒りはそこにはない。結果、顔面がボッコボコになった主人公は、その見た目により社会からの逸脱を始め、逸脱したことで得られる自由に気が付く。
その殴り合いは1人また1人とその数を増やし、ファイト・クラブと名付けられ、社会からの解放を求めた男たちの心の対話の場として、加速度的な広がりを見せていく。
どんなカルトも最初はスヤスヤ教なのだ。だれかのちょっとした共感しやすい社会への違和感。
手からビームを出したり、テレポートできるなんて話をしているところもあるかもしれないが、その教えの部分を見ると、よっぽど間違ったことを言っている宗教は意外と少ない。
その社会から逸脱しようとする人々の気持ちの斥力を、だれかが個人で利用しようとするまでは、そしてそれが個人では止められなくなるまでは、それらはただの小さな優しさなのだ。
映画と小説の違い
上述のように、私はこの映画を去年初めて見た。もちろん、その前から知っていたが、あまりにもブラピが殴り合う映画だという情報が強すぎて、ずっと「地下格闘技上でプラピが勝ち進んでいく物語」だと信じ込んでいた。
おそらく、何か違う映画と混ざっていたのだろう。
実際、タイトルの通りファイトは存在するのだが、それはあくまで物語を進めるための大きくキャッチーなツールの一つであり、ファイトでなければならないものではない。かといって、これが殴り合いではなく、ムシキングバトルや弁論大会であれば、ここまでのヒットは記録していないだろう。
他に、この映画がヒットした理由として、その縦横無尽なストーリー進行があげられるだろう。
時間が飛び飛び、話が飛び飛び、行ったり来たり。
映像のある映画だからこそのおもしろ表現だ!と思いきや、なんとそこは原作通り。小説でも、アリtoキリギリスの石ちゃんと恵さんのエアホッケーぐらいに右へ左へ大忙し。
これは実際に作者のチャック・パラニュークが、この本を執筆していた時期、小説よりも映画に傾倒していた影響があるようだ。
そして、そのある種「技法」とも呼べるストーリーの進め方が、実際のそのストーリーにさらなる意味を持たせているのだから、この小説が文学としても高評価を受けているのは、当然の結果と言えるだろう。
もちろん、小説から映画の順で楽しんだ人は、実際に背景や登場人物が映像化することによる驚きや楽しみ、脳内映像との違いはあるだろう。だが、先に映画を見てしまうと、どうしても頭の中の画はその映画に引っ張られる。そのため、どこが映画と小説の大きな違いかと言われると、ストーリーにおいては正直そこまでないのである。ラストの1,2章を除いて。
しかし、それこそが最も大きな違いであり、映画があそこまでのカルト化を起こした理由だろう。
その違いを簡単に言うと、同化で盛り上がり終わる映画と、異化で俯瞰させられる小説である。
白を想起させる空間で淡々と終わっていく小説と、黒に囲まれた世界で劇的に幕を閉じる映画。
だからこそ、映画公開後にタイラー・ダーデンに陶酔し、各地で実際にファイトクラブを開いたり、この映画はドキュメンタリーでファイトクラブは実存すると高らかに宣言する人が現れたりしたのだろう。作者からしたら迷惑この上ない話である。
一応断っておくが、別にだからといって映画監督のデヴィッド・フィンチャーが悪いわけでは、もちろんない。悪いのはいつも悪いことをしている人たちだ。
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チャック・パラニューク
そんな映画版と極端な違いを持たない原作だが、私としては、強くお勧めしたい部分がある。それは作者あとがきである。
そもそも私はあとがきとか、作者の裏話とかが大好きなのだが、そんなのは関係ないぐらい、このチャック・パラニュークさんが良すぎる。この人自身がカッコ良すぎる。この人の出す言葉の一つ一つの説得力や破壊力が本当にすごい。
小説の作者って、ちょっとイタい感じが可愛くて面白いみたいな雰囲気がある気がするのだが、この人に関しては「すごい」が何よりも最初に来た。タイラー・ダーデンより憧れるべき人だろう。
noteにHayakawa Books & Magazines(β)のアカウントで、彼のインタビューが載っているので、ぜひ読んでみてほしい。こちら。
私が特に好きだったのが以下の部分だ。
パラニュークさんはそうしたテーマの小説を書くことで、読者だけでなく、ご自身も自由になっているのでしょうか?
パラニューク 自由になっているのは私だけですよ。
そうなのである。我々読者はただ読むだけで、その感動を得ることはできても、それを表現していることにはならない。それをこんなにはっきり言ってくれるだけで、私としてはすごく信用できる人だなという印象を覚えた。
日本語で彼のインタビューを全文読めるところは少ないが、この引用、またはこの元記事で気になった人はぜひ探して見てほしい。
そして、いいのが見つかったら教てくれるとうれしい。
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余談として
アメリカのホモソーシャル、つまりは男の中の男()の世界において、この『ファイト・クラブ』は一つの憧れの世界として持て囃されがちだということをアメリカ人から聞いた。
しかし、作者のチャックは、そんな彼らが忌み嫌うゲイである。
同じくアメリカの白人至上主義者たちは映画版『アメリカン・サイコ』のクリスチャン・ベール演じる主人公パトリック・ベイトマンを理想の白人男性として見ているそうだが、そちらは女性監督によるナルシシズムな白人男性風刺が込められている。
つまりは、どんな作品であれ、我々見る側の人間はいともたやすく自分の好きなようにそれを解釈するのだ。
そして、それがああいったものへと繋がっていくのだろう。