見出し画像

特別展あわいをたどる旅/秋田県立近代美術館

秋田県立近代美術館で行われている
特別展あわいをたどる旅。

秋田県立近代美術館

あわいをたどる旅

本日3/7が最終日。

菅江真澄

画像3

三河国(現、愛知県豊川市あたり)出身、
江戸時代後期の博物学者・旅人・考古学者・詩人・絵描きおじさん。

そして後半生を秋田で過ごしたことより
秋田県のレジェンド扱い。

そんな菅江真澄をハブにしての
現代アートと文化とをつなげた表現の展示。

蓑虫山人もよい

画像1

現代ナイズされた絵がいい感じだった。

この模写した絵は、
菅江真澄より後の時代の
蓑虫山人(みのむしさんじん)のもの。

モノの場所性

菅江真澄を研究している
現代の研究者(唐澤太輔さん)の言葉の中で、
『モノの場所性を重要視していたのではないか』、
とのくだりが印象的。

理解困難ではあるが
なんとなく意訳してみる。

モノの場所性に関するポイントの意訳


古来から現代までの博物学者の人は多分に漏れず収集癖があり、
珍しいものを手に入れて集めるのが通常。

しかし、菅江真澄はそれをしなかった。

モノの場所性を重要視したからではないか。

つまり、モノがそこにあることによりそのモノの意味がある。

森羅万象に神が宿る、
古神道の考え方もあるのではないか。

モノ(景色、神社、遺跡、器、習慣、行事など)が在るという事態は、
特定の時空に場を占めるということ。

ハイデガーの唱える存在と時間についての考え、
モノと存在は切り離すことはできないという考えにも通じる。

モノの概念を人間が通常使用する言語で表現した時点で、
モノの場所性が無くなる。

つまり、モノの存在性はなくなる。

そして、
存在性までも表現できるような確固たる言語を、
人間はまだ確立していない。

よって、
菅江真澄は図絵による描写と、
それを表す方法は和歌による詩的な抽象表現として、
存在性の維持に努めたのではないか。

逆に言うと、
存在性を含めてモノを表現するには
和歌という詩的表現しかなかったのではないか。

ハイデガー、現代アート

意訳したつもりなものの難解すぎる。

ハイデガーを調べようという気持ちはわかないが、
古神道とかモノの存在性の概念にからめる解釈はおもしろそう。

そして今回も実感したが、
現代アートを鑑賞する正しい作法を知りたい。

画像2

これ、そのまま見ると意味がわからない、
というか最後までわからなかった。

解説があったとして
先に解説を把握するとしても、
感性がそっちに寄せられてしまう弊害があるだろう。

ちょうどいい距離感がわからない。

いいなと思ったら応援しよう!