間に合わず~父死す11~
さて、冷えてきたし風呂でも入って寝ようかと思ったその時、母の携帯が鳴った。珍しく2コールくらいで母はすばやく電話に出た。病院からだ。「もしもし」と言ってすぐ、母は「こわい、あんた聞いて」と電話を私によこした。
「娘です。お世話になってます。」と電話を替わると、当直の看護師さんが早口かつ冷静に「ちょっと緊急のお知らせでお電話しました。お父様がせん妄でちょっとパニックになられまして。」私は心臓がバクバクしながら次の言葉が「暴れられたのでちょっと拘束します、意識を落とす点滴も入れます」なのか「危篤です」と言われるのか、どっちだろうと頭の中で考えながら「それはご迷惑かけました、すみません。」と返し、看護師さんの次の言葉を待った。「酸素がはずれてしまって危険な状態です。すぐに来ていただきたいのですが。」だった。
今すぐに行きます、あと15分で着きます、と言って上着をはおり母に「危ないんやって!行こう!」と叫んだ。母はまずトイレトイレ、とトイレに行き「あーこわい、どうしよう」と言いながら財布を握り、大事な書類一式が入ったカバンを持った。電気、戸締りもそこそこに車にエンジンをかけ、雪の舞う夜の街を走った。道はガラ空きで、10分とかからず病院に着きそうだ。足ががくがく震えてうまくアクセルを踏めていないような気がする。
病院の玄関前に車をつけると、看護師さんから連絡がついていたのか警備員さんがすぐに玄関を開錠してくれた。なんか、これはダメなパターンかなと思いつつ、急いでエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターが開くと同時に看護師さんが待っており、こっちです、手の消毒だけお願いしますと速足で案内してくれる。廊下を走りながら看護師さんが私だけに耳元で「あの電話のすぐ後でした。お亡くなりになりました。」と小さな声で告げた。
「え。」「そうなんですか。」と走りながら答えた。母は目の前を走っているがこの会話は聞こえていない。あと5m先の個室にいる父、もう死んでいる。体の中を「そうなんだ。死んだんだ。あの後すぐに。」頭の中にカーンとその事実が響くとともに、今まで感じたことのないざわざわ冷たい感情が滝のように頭から足先へ流れる。走った先には父の遺体があるのだ、それを見るのだ、見たくない、逃げたいという思いに反し、足はぐにゃぐにゃと先へ急ごうとする。個室に入ると、父は半目を開けて息絶えていた。母は察したのか、「お父さん!お父さん!お父さん!よう頑張った!よう頑張ったよ!」と叫んで腕をさする。私は、いつものように上を向いて白目を半分見せている父の寝顔を見て、「よく頑張った。ごめん。間に合わなかった。ごめん。よく頑張った。」と同じ言葉を何度も繰り返し、父の顔を撫でた。今さっきまで生きていたのでまだ温かく柔らかかった。
看護師さんが、臨終の様子を教えてくれた。
今日はおしっこも自分で尿瓶にとって、夕食も自分で食べられていました。3分の1ぐらい食べて、ナースコールを押して「ごめん、残してもうた。下げてくれる?」と頼まれました。その後はテレビを見ておられました。20時ごろ、せん妄になられて「帰る!家へ帰りたいんや!」と立ち上がろうとしたので止めると「なんで止める!帰してくれ!」と怒られました。「今は夜やから外は暗いし、また明日にしましょう。」となだめると、はっと正気に返られたみたいで、「ああそうか、夜の8時か、朝の8時かと間違えてた。ごめんごめん。」と謝られました。その後は落ち着いて、ナンプレの本を寝ながら解いておられました。消灯後の見回りで少し目を離したすきに、酸素が外れているのに気づき、お電話をしたんです。あっという間でした。
そうなんや、今日の昼に面会に来た時はお風呂上りでホカホカしてた。夕方は機嫌よくテレビ見て夜ごはんも食べれてたんや。1時間前にせん妄でパニックになって、その後落ち着いて看護師さんと仲直りしたんやね。30分前まではナンプレしてたんやね。ほんの10分前までは生きてた。
間に合わなかった、ごめんね。よく頑張ったね。あまり苦しまなかったようだ。呼吸ができなくなってすぐに気絶するように死んでしまったんだろう。よかったのかも。よかったよ。これでよかった。立派やった。
そんなことを言いながらちょっとずつ冷たくなっていく父の体をたくさん撫でた。看護師さんが病室の荷物を持ってきてくれ、死後の処置の準備を見回りの間をぬって進めてくれる。家族に連絡しなければ、と弟に電話し、夫に電話し、一番近くに住む娘にLINEした。娘が来るまでに、父に着せて帰る服を家に取りに戻った。雪はずっと降り続けている。震えながら家の電気をつけ、父の服を探す。寒くて寂しくてひとりで声を出して泣いた。
病院に戻ると終電ギリギリで娘もやってきた。父の亡骸を見てぼろぼろ泣いた。でもすぐに女3人でこれからやるべきことについて話をし、だんだんと冷静になってきた。看護師さんが体を清めて死化粧をしてくれる。私たちも温かいタオルで体を拭き、娘はドライヤーで髪を乾かしてやった。まだ硬直の始まっていないぐにゃぐにゃの父の手を握った。子どもの時につないだ感触を思い出す父の手だった。そうそう、こんな手をしてたんだ、と思い出して何度も手の感触を味わった。葬儀社に電話し、1時半に病院に迎えに来てもらってそのまま葬儀社の霊安室で預かってもらうことになった。
時間通りに葬儀社の迎えの車が来た。父は棺に納められた。雪の中、葬儀社に向かう途中、5分ほど実家の前で車を止め、棺を開けてくれた。「お父さん、帰りたかった家にやっと帰れたね。」と母が声をかけた。