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私の写真という感覚は「自己帰属感」なのか?

渡邊恵太さんの「融けるデザイン」を会社の図書館に入れることに成功しました。この本はデザイナーだけでなく開発者にも読んでもらうことで、より著書が実現しようとしている透明性が高く自己帰属感のあるUIを製品に取り入れることができると思い選定しました。

それを記念して、過去に何度かnoteの記事の中で「自分がこだわって撮影した写真は自己帰属感がある」という表現を使ってきましたが、これが単なる所有感なのか、それとも代理存在としての一体感(同一感)なのかということを考えてみました。

医療では、渡邊さんの言う自己帰属感のある透明な存在としてのUIが重要であり、その中に「医療情報」というコンテンツと「医療行為」というアクティビティが存在するだけの状態が一つの理想です。VRやMRが積極的に使われようとしている背景には、そのような考え方があります。

それに対して、趣味性の高いカメラのUIでは必ずしも透明なUIだけが理想では無いのではないかという議論を含めて、書籍の内容を逸脱して考えてみたいと思います。


なぜ私が「自己帰属感」という表現を使うのか

写真という「モノ」は、マウスカーソルやUIなどの現象レイヤではなく、文化レイヤのコンテンツの一つの形態です。

UIによって機器を操作した結果出てくるものや、UIによって操作する対象になるものというのが一般的な考え方だと思います。

しかし、私がデジカメUXを考える中で思うことは、そのコンテンツが単なる客観的なモノではなく、自己形成や自己表現のために「常に動かし続けながら、自己の状態変化を示している」と考えることができると思っています。

SNSにアップされる写真「群」は、毎日編集され続け、ユーザーの制御のもとにあり、ユーザーの活動と「連動」したものになっています。

また、1枚の写真でさえ、手の中で次々と表情を変え編集可能であり、ユーザーに制御されているといえます。

これらの特徴は、渡邊さんが著書の中で最初の例として挙げている「マウス⇒カーソル」と同じ特性を有していると思っています。

つまり、カメラがマウスであり、写真はカーソルで、ユーザーの意思によって常に変化をしながら、その結果が撮影者の「思い通り」になっていれば、自己帰属感が高いと言うことができます。

一般的なGUIではなく「私のカーソル」と感じるのと同じように、一般的な写真ではなく「私の写真」と感じることが特別な意味を持っているからです。


「思い」と「撮影体験」が反映された写真

マウスを動かすことで初めて「自分のカーソル」と認識することができるように、写真の自己帰属感において「撮影行為の中でカメラを操作する」という撮影体験が重要であると思っています。ここでいう撮影行為は、写真を思い通りにする行為を指しているので撮影後のスマホによる編集も同様です。

いずれにしても、オートで被写体を真ん中に入れて撮影しただけでは自己帰属感は薄くなってしまいます。

「自分が写った写真」の私の写真として認識していますが、多くの場合は私の撮影体験は非常に弱いものです。(モデルとして積極的に作品のイメージづくりに参加した場合には強い撮影体験と言えます)

今後、AIによる自動撮影や設定の自動化が可能になってきますが、この辺りの体験設計が重要なポイントになってくると思います。


撮影行為の「透明性」と自己帰属感

操作を意識せずに身体運動の延長として対象を直接操作する感覚が「透明性」ということですが、撮影においては「失敗を重ねた末の成功」のように、コントロールの意識化や操作体験のドラマ性がコンテキストになり、より強く「自己」を意識することができることが、マウス操作と違う点だと思います。

実際にはマウスも、「外部の困難な課題を、スムーズなマウス操作で解決する」という階層をもって操作している訳ですが、カメラにおいては機器の操作そのものも困難な課題の一つとして扱われることがあります。

目的の達成とは別の「機器を使いこなす」という満足感です。

フォーカスがマウスを使うようにスムーズに思い通りのポイントに合ってくれれば、カメラという装置の身体との一体感は高まるかもしれませんが、私の写真と感じる自己帰属感では、逆になかなか合わないフォーカスを使いこなしてやっとの思いで撮影した方が強まるという考え方です。

この2つの感覚は次元の違うことであり、マウスの例で考えるよりも、ゲーム機におけるコントローラーの操作性と、ゲームそのものがもつ「冒険性」「困難の克服」「達成と報酬」の関係として考えた方が理解しやすいと思います。

ゲームではコントロールミスが起きます。機器が悪い場合も、ユーザーが悪い場合もありますが、ゲームそのものの内容とは別のところで、ユーザーが課題を感じ、それをより良い機器(ゲーミングキーボードやマウスなど)の購入や、ひたすら操作の練習をすることで克服する楽しみがあります。

自動車のドライビングではマニュアルミッションを使いこなせた時に感じる人馬一体感や、ジャジャ馬を乗りこなした時の満足感も同類のものです。

いずれの例でも、最終目標がマウスと同じように「透明なUI」になり満足感を得ることに変わりはなく、サイドストーリーとして「使いこなした」ことがより自己体験を強くして、結果的に自己帰属感を高めることになるのではないでしょうか。


まとめ

カメラや自動車は昔から愛機、愛車という表現が存在していました。最初から透明なUIではなく、時間を掛けて身体の延長として透明化することで、手放せない存在になることを表現した言葉です。

結局、「私の写真」と思う感覚はが、渡邊氏が言っているUIの自己帰属感を拡張したものなのかが、それとも全くの別物なのかは現時点では結論がだせていません。

非常に哲学的な内容を含んでいますが、別物と言い切ってしまえば、話はそれまでで終わってしまいます。

シンプルで透明でフラットなUIが一つの理想として考えられていますが、フクザツでヒッカリがありディープなUIが提供する、エモーショナルなUI体験ということもちょっとだけ考えてみると面白いかもしれません。私はこれからもデジカメUXの研究対象として注目していきたいと思います。

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