滲む輪郭/短編小説
俺が小学六年生になるころ、母さんがおかしくなった。
朝、「今日の五限目、行くからね」と言っていたのに、授業参観に来なかった。家に帰ってから、「なんで来なかったの?」と訊けば、「なにが?」と返された。本当に、何も、ピンと来ていないようだった。
事件が起きたのは、中学一年生になるころだった。
母さんが、働いているスーパーのお金を盗んだのだ。なぜこんなことしたんだ、と母さんを連れ帰った父さんが、リビングで母さんを問い詰めていた。「分からない」と言う母さんを、父さんはさらに怒ったけれど、母さんは本当に分かっていないようだった。
「手にお金を持っていたの。持っているってことは私のだろうって思って、ポケットに入れちゃった」
夕飯の支度をしながら、母さんは俺に、困ったようにそう言った。それが、本当はお客さんが代金として支払ったお金だったのだ。疲れているのだろうって、その日は店長さんが母さんを早く上がらせて、でも様子がおかしいから父さんに連絡したらしかった。その日は、それだけで大事にはならなかったけれど、そのあとにも何回もそういうことがあって、とうとう母さんはクビになった。
クビになったのに、次の日も職場に行く準備を母さんがしているから、これはおかしいと言って、父さんが母さんを病院に連れて行った。夏休みに入る前のことだった。ゆるやかに、母さんは色んなことを忘れていった。そういう病気なのだと、父さんが教えてくれた。
俺は中学二年生になった。
母さんは、『母さん』であることを、忘れてしまった。
「トモくん、貸してくれたマンガ、ありがとう」
「うん。……おもしろかった?」
「ええ、すごく」
母さんは俺に、カバンの中に入れていたコミック本を渡すと、思い出したように「お菓子とジュース持ってくるね!」と、部屋を飛び出していった。
その間に、後ろにあった本棚に本を戻す。同じタイトルの、三巻と五巻の間に四巻を戻した。本棚の一つ上の段には小学校を卒業するときに貰った色紙がある。『佐伯新』と書かれた名前を、指でなぞった。少しだけ埃っぽかった。
中学一年の終わりから、俺は『トモくん』になった。
『トモくん』は父さんの名前で、母さんは、十四歳になって、俺は母さんの中からいなくなった。
玄関扉が開く音がする。ハッとして時計を見れば、十七時になるところだった。
部屋を出て、階段を降りている途中で、母さんの「お父さん」と言う声が聞こえた。
「お父さん、おかえりなさい」
ハツラツとした、跳ねるような声。玄関先には、父さんがいて、リビングから顔を出した母さんは、木製のトレーにクッキーとお茶が入ったグラスを載せている。
「ただいま」
靴を脱いで上がった父さんが、母さんの頭を撫でる。それから俺に気付いてこちらを見るから、俺は頭を下げた。母さんが、俺と父さんを交互に見て、「今、トモくんが来てて、勉強教えてもらってたの」と照れ臭そうに笑った。胃が、ぐるぐると痛む。
「……君はもう、帰りなさい」
「はい。お邪魔しました」
「えっ、今お菓子出したばっかりなのに!」
「今日はもう遅いから。典子、夕飯にしよう」
「か……典ちゃん、また明日」
えー、と不満そうな声がする。父さんの横を通り過ぎて、靴を履く。帰りなさい、と言う父さんの声が、頭の中で何度も響くのはいつものことだ。
「また、連絡する」
父さんが言った。俺に言ったのだ。俺は何も返さずに、玄関扉のドアノブに手を掛けた。
昼間に雨が降ったからか、外は西日がキツく、いつも以上に濃いオレンジで染められていた。これがすっかりと黒に塗り替えられるころに、父さんからスマートフォンに「戻ってきていい」と連絡が入る。母さんが、眠ったあとのことだ。
母さんはずっと父さんを「お父さん」と呼んでいたけれど、今じゃ全く意味が違う。『息子のお父さん』ではなく、『私のお父さん』なのだ。母さんは、自分の父親だと、父さんのことを思っている。父さんは細身だけれど、母さんの父親……つまり、俺のじいちゃんはちょっとふっくらとしていて、全然似ていない。けれど、母さんの目には、俺が『トモくん』に見えるのと同じように、父さんが『お父さん』に見えるのだ。
中学生のころから、お父さんと付き合っているのよ。と、聞いたのは、何年生のときだっただろうか。母さんは、俺の母さんの姿のまま、その頃に戻ってしまったのだ。
人は死んだら一番楽しかったころの姿で天国で過ごすと聞いたことがあったけれど、俺には母さんがそうなってしまったように見えた。それくらい、十四歳の母は、いつも目を輝かせて、ときにうっとりとした目で、俺を見るのだ。
そして、父親になってしまった父さんは、隠しているつもりなのかもしれないけれど、嫉妬を孕んだ目で、俺を見る。
胃の中から熱いものがこみ上げてきて、背中が曲がって肩が上がる。慌てて口を押えて、一度戻ってきたそれを無理やり飲み込んだ。
俺の家族は、何になってしまったのだろう。
父さんは、働かなくちゃいけないから日中はいない。
日中は、母さんが勝手にどこかに行かないように俺が『トモくん』として傍にいる。
施設に預けることや周りに頼ることは、父さんが世間体を気にして拒否し続けている。
もう、何ヶ月も学校に行けていない。家族より大切なものがあるか、と父さんに言われて、これが家族なのか何なのかも分からないのに、何も言い返せなかった。
重い足で、玄関から真っ直ぐ伸びた先にある黒の門を開ける。少し錆びていて、ギッと嫌な音を鳴らした。家のほうを振り向けば、窓から中が見えないように、そして中から外が見えることがないように、カーテンが閉められている。
「あれ? 新くん?」
高すぎない、聞き心地の良い声がする。「やっぱり、新くんだ」と言われるまで、一瞬それが自分のことを言われているとは気づかなかった。
セーラー服の白い袖が、オレンジ色に染まっている。小学生のときは二つ結びだった千佳の髪形は、いつから一つ結びになっていただろう。
「元気?」
「うん。元気だよ」
「そっか」と千佳は続ける。俺の家の、三軒隣に千佳の家はあるけれど、彼女はそこから動こうとしなかった。
「ねぇ。明日は、学校おいでよ」
詰まるような言い方だった。神妙に、そして慎重に吐かれた言葉だった。
明日。明日。明日は学校がある日なのか。ずぅっと日曜日を繰り返しているような家で、カレンダーは無意味だった。
「うん。明日は、行こうかな」
明日が来るなら。明日が、来てもいいなら。
「新くん」と、もう一度、千佳が俺の名前を呼んだ。そうだ。俺は『トモくん』じゃない。
千佳が、そこから動かないでいてくれて良かった。逆光だから、きっと千佳からは俺の顔も何も見えていない。輪郭なんてハッキリしなくて良い。苦しくて、息がうまくできないのをどうやって誤魔化したら良いのだろう。
頬を伝う涙は、俺のこれまでを俺自身が否定しているようで苦しかった。