ちいかわ"島編"感想文『なんか不公平だけど光もある世界。島二郎達に感謝を込めて』
はじめに
初めましての方は初めまして。古矢沢(こやざわ)と申します。この度はX(旧Twitter)上で連載している『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』の俗に"島編"と呼ばれている物語の、ちいかわ達の冒険が一段落したと思われることを受けその感想文を書かせて頂くことにしました。
その上で、ひとまずは冒険のひとまずの終わりを労うところから感想文を始めさせて頂きます。ナガノ先生も読者の皆もちいかわ達も、本当にお疲れ様です。ちいかわは草むしり検定でも健闘を祈ります!
なんか不公平だけど光もある世界
"島編"のストーリーは個人的に"ちいかわ"の世界の複雑さを改めて感じられるものでした。そして、その"島編"をSNS上での盛り上がりなども含めて体験し、自分なりに考えて重要だなと思ったのは"ちいかわ"は善と悪、運命的な因果応報などが世界のルールに組み込まれているような『世界の法則が人間的な価値観に沿っているタイプの作品』ではなさそうだけど『だからこそ常に悪いことばかりにはならない』のだろうなという考え方です。
もう少し具体的に言うなら『世界の法則が人間的な価値観に沿っていない』なら逆に『怪異が人間に近い感覚を持つことを制限するルールもない』のだろうという考え方です。尚、これはあくまで"基本の話"でありハチワレやうさぎを一時的に怪物にした"杖"の製造者等が明確な意図のあるルールの元に産み出した怪異がいる可能性等については一旦置いておくものとします。
そういった認識を重要視した流れを言語化するため、まずは島編でちいかわ達の前に立ち塞がった”セイレーン”は人間的な感覚を持っているのか?について話してみることにします。
セイレーンは人間的な感覚を持っているのか?
"島編"のセイレーンを見てみると、俗に言う"でかつよ族"が『人間的な感覚を"一切"持てないわけではない』ということが見えてきます。端的な事実としてセイレーンは誤って襲ったちいかわ達を焚火の元で介抱し、自分から頭を下げることまでしています。加えて"怪異"や"でかつよ族"といった非公式の分類は読者視点のもので実際はセイレーン、オデ(正式名称)、あのこ(正式名称)などは『異なる種族であり個別に考える必要がある』と思われる点も重要です。
セイレーンは『間違えて襲ったちいかわ達を見捨てても咎められることが基本ない立場』であり『ちいかわ達とは圧倒的な力の差を持っている』ことを考えると、セイレーンは確かな理性と奥ゆかしさを持っていると考えられます。「だから食べてるの」等の個別の振る舞いから価値観や感覚の違いは感じられますが、少なくとも対話の道が見出せないほど共通する価値観を持たない存在ではないように思えます。
とはいってもセイレーンは無関係の島民を平然と味噌漬けにした上でラッコ師匠の訴えを「エ~?」で済ませているのも事実です。セイレーンを上位捕食者ではなく対話可能な相手として見るならこれ自体はよいことではないと思われます。ではセイレーンの理性と奥ゆかしさは表面的なものなのでしょうか?個人的にはそうではないと考えています。
少なくとも『友好的な島民と仲良くなれたと思って油断したら仲間が食べられた』という自身に友好的だった島民全員を疑いうる状況で直接的な犯人でない島民を罪の意識なく巻き込むのは"非人間的"ではないと思われます。よいことではありませんが人間的な反応だと思います。ラッコ師匠もセイレーン視点では島民の味方をして攻撃してきた側なので島民と同様だと判断されている可能性が高いです。
逆に言うと相手が疑わしく自身や仲間が多大な被害にあった状況、例えば"人魚食い由来の騒ぎで自身や友人が死にかけた後に知人の鍋から人魚のものと思われる鱗が出て来た"ような状況でも直ちに相手が悪いと断定せず判断を保留するには強い理性が必要となります。そういった視点で見るなら、ちいかわは正に主人公の名に恥じない心の強さを持っていると言えます。
また抵抗できない相手を平時から無自覚に害していることについても、視点を変えれば"人間と比べて異質"と断定することは難しいと思われます。言ってしまえばこの記事を書いている筆者も公害が原因で寿命を縮める遠い未来の人達を常に気にしながら生活しているわけではありません。"だから許すべきだ"という話ではなく"立場が極端に弱い相手の視界外の被害に鈍感なこと自体は異質な振る舞いではない"という話です。
それはそれとして泣きながら食料を捧げられてるのに『怖がられている』とは露ほども思ってなさそうなのはセイレーンの落ち度ではあると思います。ただこれは『人間が動物の感情を表情から読み取る難しさ』に近い話なのかなぁとも思います。島二郎氏以外の島民の中に『流暢に話せる』個体がいればある程度解決したと思うのでここは双方にとって不運だった点と言えそうです。こうして見るとセイレーンが恐ろしい存在であったのは『圧倒的に強大な異種族だったから』でセイレーンの感覚自体は『対話が不可能でない程度には人間に近い』と考えられます。確かに異質な感覚も持っていますが、少なくとも共存を続ける道がない存在であるとは考えにくいです。
このくらいの感覚や価値観の違いは人間同士でもよくあります。『異なる感覚も持った共存が非常に困難な異種族だが一切対話不能な存在ではない』程度が公平な見方かと思われます。流石に本編のように事態がエスカレートしてしまったなら円満な和解は非常に困難でしょうが、それより前、セイレーンと島民が共存を始めたタイミング、双葉が事故に遭ったタイミング等であれば結果を変えるチャンスは十分あったものと考えられます。
少なくとも島民側から「自分たちは貴方を怖がっています」「仲間が重傷を負ったことを不当に思います」と伝えられていれば結果や過程はよい方に変わり得ました。掴むのが難しいチャンスを見出す必要があった島民達にとっては不公平な話ですが対話が価値を産みうる以上、対話不能とは言い難いです。勿論、あの立場の差では島民達がそれを試みることは現実的に難しいことも考慮する必要があります。この点でもセイレーンに対して対話を試み続けたちいかわ達は讃えるに値します。
そして、色々と本編の出来事を引用しつつセイレーンは"対話不能な怪物"という属性のキャラクターではないのだろうということを主張してきましたが、それはそうと改めて作中の出来事を並べて思ったことがあります。
マジで被害大きいな!!!
島二郎氏は"鎧さん族"か"でかつよ族"か?
では、人間的な感覚をある程度持っていても『圧倒的に強大な異種族』は常に恐ろしいもので、そういった存在と平和的に共存することは難しいのでしょうか?この疑問の答えは島編を読んだ読者の多くには自明と思われます。
島二郎氏が反例となります。島二郎氏は初対面のちいかわ族に怖がられることこそ多いものの確認できる限り作中で出会った全てのちいかわ族に受け入れられています。この違いはなんでしょうか?お腹が空いているちいかわに食べ物を与えてくれる優しさ、身の危険も厭わず守るために戦ってくれる頼もしさも間違いなく重要でしょうが、個人的に特筆すべきだと感じた点が1つあります。味方であることを自分からはっきり示していることです。
行動で示すのも大事ですが、言語化も大事です。これだけで接し方の判断が随分としやすくなります。種や文化が異なる場合は猶更です。島民の反応やX(旧Twitter)上に流れる感想の傾向を見る限り、できれば言葉と行動の両面で繰り返して"味方である"ことを伝え続けるのが重要と考えられます。そして味方であることを伝えられていれば、ちいかわ達や島民の側からもコミュニケーションが取りやすくなります。
そして、ならば島二郎氏は俗に"怪異"や"でかつよ族"と呼ばれている存在でありながら、幸運と理性と善性により良き隣人となることができた存在なのか?と考えた時に新たな疑問が出てきます。島二郎氏は『でかつよ族』に近い存在なのでしょうか?それとも鎧を着ていないだけで『鎧さん族』に近い存在なのでしょうか?
個人的にはここは"重要ではない"と考えます。そもそも先述の通り『鎧さん族』『でかつよ族』は読者視点の区分であり『鎧さん族に近い存在だったから分かり合えた』『でかつよに近い存在でありながら分かり合えた』という見方を島二郎氏の評価に持ち込む必要はないと考えられます。大事なのは島二郎氏がちいかわ達に寄り添う道を選んだことと、それはいつもの鎧さん達や島二郎氏にしか選べない道では"無い"ということだと自分は考えます。
世界の不公平さと優しさ
ちいかわの世界には色々な生き物がいます。種族によって感覚やスペックの違いも大きいです。「ゲゾゲゾゲゾ」と鳴き酸を吐いてくる芋虫のように相互理解のチャンスがまるで見えてこない怪異もいます。
ですが島二郎はちいかわ達と共存する道を"対話の上で実現する"ことができました。セイレーンも"対話可能なタイミング"はありました。会話可能なレギュラーキャラの中では特別に異質な価値観を持っていると思われるモモンガでさえ当人が求めるものを対価に提示すれば"意味のある交渉をする"ことは可能でした。
故に"ちいかわワールド"は非人間的な怪異に見える、一見対話不能に見えるというだけで会話を諦める必要はない世界だと言えそうです。ですが、だからこそ。友好的な姿勢を装って隙をつく”擬態型”が恐ろしい世界だと言えます。"擬態型"は"友好型"を始めとした共存が現実的に可能な個体がいるからこそ真に恐ろしい存在なのだと言えるでしょう。しかし"擬態型"という括りも"ちいかわ族"や"鎧さん族"視点のもので、"擬態型"と分類されているからといって対話不能とは限らないのもポイントです。つまりは、ちいかわワールドで怪異と遭遇した際に己や仲間を守りつつ隣人となりうる個体を害することも避けたいなら、それぞれ個別に見て正確に判断し対処する必要があると思われます。いっそ全員"でかつよ族"という括りで敵だった方がやりやすいくらいのウルトラハードモードです。しかし"ちいかわ"の世界はそこまで単純でもイージーでもなさそうです。
そしてこの負担は判断を誤っても破滅に直結しづらいセイレーンのような存在より、判断ミスが破滅に直結しやすい"ちいかわ族"により重くのしかかってきます。不公平です。ですが、そのように不公平で、理不尽で、世界の法則が人間的な価値観に沿ってないからこそ、それぞれの命が人間的な善悪等に関係なく産まれて来る世界だからこそ、大きく強い存在が善性を持つことを縛るルールもなく、時に島二郎氏のような尊い存在が現れるのだとも自分は思います。
島二郎達に感謝を込めて
そして島編で活躍したのは島二郎氏"だけ"ではありません。島編で活躍した島二郎達に感謝を込める意味を込め、先程の章で触れたセイレーンと島二郎氏"以外"のキャラクターの活躍にも目を向けてみることとします。
ちいかわ
主人公。なんか心がつよくて理性的なやつ。個人的に、今シリーズの"ちいかわ"は主人公として大きく成長したと感じました。追い詰められても前に進み続け、戦いの場でも十分活躍し、考えるべき箇所ではしっかりと考えて自分なりの答えを出しました。
俗に葉っぱ島民と呼ばれている2人に対してちいかわが行った判断は人によって大きく解釈も評価も分かれるところでしょうが、個人的にこの場面のちいかわは強い理性の元で『証拠を握っている自分が踏み込むべきこと』『事情を知らない部外者が超えるべきでない一線』『実際に追及した場合に起きてしまうこと』などを考え、限られた視点で最善に近い答えを出せたのではないかと思います。他にも選択肢はあったでしょうが讃えるに値します。"伝えることが大事"という先ほどの話と組み合わせて考えるなら"なんでも伝えるのが良いとは限らない"という話なのかもしれません。ひとまず、ちいかわは今後も泣いたり負けたりするかもしれませんが自分が感じた"心がつよくて理性的なやつ"という印象はそう簡単には消えないでしょう。
ちいかわの判断力についてはうぐいす餡のくだりの印象も強いですが、これはまぁ、滅茶苦茶眠かっただろうし消耗もしてたから……
人魚達
"人"と取るか"魚"と取るかで印象が大分変わるやつ。人魚達は外見や振る舞い自体は普段出て来る小型の怪異に近いものでしたが、セイレーンが大切な存在として認識していること、そして少なくともセイレーンの元では自身の身体でちいかわ達を温めるような友好的な振る舞いができることもあり、普段の怪異とは大きく印象の異なる存在であったと自分は思います。
そして人魚達は"人"と取るか"魚"と取るかで島編の読み味や他のキャラクターへの評価自体を大きく変えてしまう存在であったと言えます。セイレーンとの関係も『友人』『家族』『ペット』『それ以外』と多様な解釈がありそのどれを採用するかでセイレーンの行動への共感しやすさが変わってきたと思います。"永遠のいのち"の件も含め、"島編"の物語のキーキャラクターであったと言えるでしょう。
個人的な人魚の見方はセイレーンと葉っぱ達の復讐の連鎖に"不意討ちすれば一葉でも倒せるくらいに弱かったから"巻き込まれた存在ではあるのでやや"同情的"ではありますが、"人"寄りか"魚"寄りかで言うと"魚"寄りではあります。ただし"歌を歌ったりイカで遊んだりする魚"です。本編での振る舞いは本能で生きる単純な動物のようであったため評価が難しいですが本当にそうだったのか?は闇の中であり、セイレーンに大切にされていたことも伺えるため、本気で"人魚を襲うことの是非"について語り始めればとてつもない文量を割いても結論は出ないでしょう。それを考えるとこの小さな生き物たちは正に『人』『魚』という名に恥じない狭間の存在だと言えるのかもしれません。
一葉&双葉(俗称)
おそらく最も読者の評価が分かれるであろう二人。行動の是非や解釈、情状酌量の余地について語り始めるだけで大激論になりかねない劇物。
個人的には双葉については"咄嗟に他者を庇う振る舞いをしている"ことから今回の事件がなければそれなり以上に勇敢で善良なちいかわ族として生涯を終えたものと考えています。加えて"ちいかわとの対峙シーンで汗一つかいていない"ことなどから"覚悟"を決める意思の力が強い人物だと伺えます。ただしセイレーンを警戒しなかったりと良く言えば肝が太い、悪く言えば危機感のない振る舞いは今回の事態の一因でもあります。
一葉については事が起こる前からセイレーンに対して強い警戒を示しており"ちいかわとの対峙シーンで汗を流している"ことから双葉と比べると"小心者"であることが伺えます。ただし"双葉の命を救う"ことや"復讐"などの動機が加わると凄まじい感情の爆発とそれに伴った行動を見せるタイプでもあります。そして人魚殺害の実行者です。
そして双方に共通しているのが、無関係の島民に被害が出ても自分達が人魚を食べたことを黙っていたことと、その上で今回のようなトラブルに巻き込まれなければ人魚を襲うことや他の島民を犠牲にすることなど考えもせず普通に一生を終えたであろうことです。
個人的には運悪くセイレーンのジャンプに巻き込まれなければ善良なちいかわ族として一生を終えられたであろう二人を単なる悪人とするのは善人、悪人の評価が運で決まる形になってしまうので避けたいです。二人を悪人と断ずるのは簡単ですが安全圏からならなんとでも言えますし、相方が死にかけの状態であったり、天秤の片方に永遠の苦しみが乗っている状態での判断がどれほど難しいかは当事者以外には分からないためここは奥ゆかしく行きたいです。
個人的な見解として『同じシチュエーションに複数人を放り込んで反応を見る』ような均一な条件であれば二人の善性は決して低くないと思われます。少なくとも双葉に善性がなければちいかわとハチワレはセイレーンの尻尾の直撃を受けていただろうし、最悪命を落としていてもおかしくないです。永遠のいのちを手にした時点で"セイレーンに露見した時の運命"を二人がどの程度推測出来ていたかは議論の余地がありますが、自分が永遠に苦しみ続ける可能性がある状況で他人を優先できればそれはスーパーヒーローの類であり、そのレベルのことは誰にも求めたくないと自分は考えます。
彼らが破滅したかは最終的には読者の判断に委ねられることとなりましたが、仮に破滅したとしてもそれは運命的な因果応報ではなく、セイレーンと葉っぱ達がそれぞれに動き、自然な結末を迎えただけだと判断したいです。
モモンガ&古本屋
なんかいい空気を吸い続けてるやつと相方の扱いに慣れてきたやつ。
モモンガはある意味では相変わらずでしたが、先程も少し触れた通り"興味を惹くもので釣れば交渉は可能"という側面や"より良い行動を取るよう誘導することは可能"という側面も見せてくれたので、島編を『価値観や立場が異なるものとの接し方の話』と取ればテーマ上重要な役割を担っていた気がしなくもないです。そして、自分の中で評価が大きく上がったのが古本屋さんです。
クライマックスのシーンを見る限り"モモンガがどういう存在か"を完全に把握しているとは言い難いかと思いますが、ある程度モモンガの行動パターンを理解した上でそれをプラスの方向に誘導できるのは感嘆に値します。その上で自らちいかわ達を助けに動く勇気を見せてくれたのもグッドです。一気に"ちいかわ"の個人的推しキャラランキングで上位に駆け上って来た気がします。今後もモモンガとカニ、そして"でかつよ"の物語に期待していきたいです。
ハチワレ&うさぎ
このポストの4コマ目のちいかわ、ハチワレ、うさぎ大好き。
先述の通り、ちいかわの最後の選択は読者によって解釈も評価も大きく分かれるところかと思いますが、この場面でハチワレが満面の笑みを浮かべているのは間違いなくちいかわが自らの選択で掴み取った光景だと思います。そして、そんなちいかわを滅茶苦茶に撫で繰り回しているうさぎもとても良いです。
ラッコ
ちいさくてかわいくて、なんかセイレーンに通用する力を持ってるやつ。
個人的には"上位ランカーの格を見せてくれた"という印象です。先ほど『でかつよ族だから』『怪異だから』というような見方で判断すると個体の本質を見失いかねないという話をしましたが、それに対してラッコ師匠は『ちいかわ族だから』という見方が通用しない存在だったと思います。
実際、長期間の拘束を受けていたにも関わらず助けが来た直後に他の被害者の場所を共有し、その被害者を背負って脱出を先導できるフィジカルとメンタルの強さは驚嘆に値します。加えてハチワレの話を即座に理解し、セイレーンとの話し合いを試みる柔軟さも持ち合わせています。ちいさくてかわいく、強さと善性も持ち、向上心も強い完璧に近い生物です。ラッコ氏を師匠に持てたことはハチワレにとって大きな幸運だったと言えるでしょう。
シーサー&くりまんじゅう
逃げる選択肢もあったけど頑張った2人。チラシを見て島に来たのはいつものメンバーだけではなく、いつものメンバー以外の面々は巨大なセイレーンと戦うことになると分かった瞬間に悲鳴を上げて逃走したことを考えるとセイレーン相手に立ち向かう意思を見せたこの2人も十分すぎるほどに強い勇気を持った存在であることが分かります。
その上で、2人は最後まで"あくまで非戦闘員"で、ある意味では島でのリゾートを最も満喫できた存在だったと思うので、今回の騒乱から守るべき平和の象徴だったとも見られるかもしれません。今はただ、2人が深い傷を負うことなく、良い思い出と共に島を去れたことを喜びたいです。
おわりに
ここまで書いた上で、改めて自分が感じたのは『ちいかわ』という作品はある種の"あるがままの世界を描いている"のであって"露悪を主題としているわけではない"のだろう、ということです。自分が大好きな"パジャマパーティーズ編"でも、物語はただ暗いだけではなく、確かな光を感じられるものでした。その時の感情を更に強く感じさせてくれた"島編"には大きな感謝を送りたいです。
自分は"ちいかわ"以外にも人間とは考え方の大きく異なる存在や、人間より遥かに大きな力を持った存在が出て来る作品を多く楽しんで来ましたが、"そういった存在と分かり合うことが可能か不可能"か"そういった存在の中に人間とよく似た感覚を持ったものがいるか"は作品の読み味を大きく変える点だと思います。これは"それぞれに作品としての利点がある"ので、どちらが良いとは言い難いのですが、個人的には"本当に話が通じない相手もいるが個体や種族によっては人間に近い感覚を持っている"くらいが特に好みなので、ちいかわはその点でも丁度いいと感じました。
例えば異質な存在を描いていることを大きな魅力としているラヴクラフトのクトゥルフ神話作品の異種族でさえ『狂気山脈』の『古のもの』などは『おそらく人類の先祖を創造した種族であり』『おそらくクトゥルフに連なる勢力に敗北した経験を持つ種族である』などの立ち位置もあって『人間に近い行動をすることもある種族』として描かれていたと記憶していますし、これはクトゥルフのような本当に異質な存在の恐怖を引き立てつつ、人類にも同じような運命が待っているのではないかと想像させるのに一役買っていたと思います。
また、太古より存在した超人である"ニンジャ"が憑依したことでニンジャとなった存在"ニンジャソウル憑依者"が登場する作品"ニンジャスレイヤー"においても、多くのニンジャソウル憑依者を邪悪な存在として描きつつその邪悪性の由来は基本的に『ソウル自体が邪悪』であった場合と『憑依された人間が力に溺れている』場合の2種類でありどちらの場合も自力での克服が可能であるとしている点は話の幅や面白さに大きく貢献していると思います。実際、ソウル憑依者の存在が広く認知され、常人もニンジャもニンジャに関する判断を比較的正確に行いやすくなったAoMシリーズでは善性を感じられるニンジャの比率が明らかに増えており、それによって話の幅が大きく広がっているように感じます。
勿論、いわゆる"モンスター"をまとめて悪役とするのもそれはそれでありです。主人公陣営の気にすることが減るので他のテーマに文量を割きやすくなるなど多くの利点があります。要はケースバイケースで、自分が面白く感じるかは作者の技量や方針次第です。その上で、自分は"ちいかわ"ワールドのこの空気感がとても好きです。
では最後に、"ちいかわ"の作者であるナガノ先生への謝辞を以てこの感想文を締めさせて頂こうと思います。楽しい経験を本当にありがとうございました!これからも"ちいかわ"の世界を、末永く楽しんでいきたいです!
ヘッダー画像に使用した素材:『Unsplash』
ポスト引用元:@ngnchiikawa
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