
寄り合いとしての「車内空間」、または並行世界の交差点
リモートワークとオフィスワークを組み合わせたハイブリッドワークでの勤務をされている方も多いと思います。その中、リモートワークの比重が上がっていくと、ちょっとした雑談がしにくくなる、そんな経験あるのではないでしょうか。この記事では、「寄り合い」という場から着想を得て、合意を求めない対話の在り方について考えてみたいと思います。
「合意未満」というあり方
雑誌「ちゃぶ台 13 特集:三十年後(ミシマ社)」を読んでいると、ある福祉サービス事業所の会議についての記述がありました。スタッフによる定例の全体ミーティングは最低4時間。前半は直近2週間のふりかえり、後半はトピックを決めて運営に関わる議論が行われる。このミーティング、合意に達することを全力で回避しているような会議なのだそうだ。例えば、なにかケーススタディ、エピソードが共有されると、「次はこういうアクションをしよう」といった結果にはならず、その会議のあり方は、こんな風に記述されています。
何らかの合意が形成されそうになると、それに従わなくてもいいという可能性を確認するような声が、かならず上がるのです。いっしょに、バラバラでいるための会議。
曰く、「合意未満のスタイル」なのだ、と。
寄り合いという合議体
この、福祉サービス事業所の「合意未満」というあり方は、日本に古くからある「寄り合い」という合議体が持つ性質に近しい、と感じました。
日本における中世以降、村の合議の場として機能したのが「寄り合い」。寺社や村役人の家に集い、農事や村の諸経費など、合議のための関係者の集合を指します。寄り合いは、合議のための場でもありつつ、地域コミュニティの円滑な関係を保つ場でもあります。そのため、結論めいたことを出しづらかったり、ある程度、予定調和的な側面もあるとも言われています。しかし、結論を急がないことが、長期的な調和を維持するための知恵でもあるわけです。
「合意未満のスタイル」は、あらゆる可能性を内包しながら先へ進む姿勢と可能性を持っています。そこに、新鮮さを覚えました。ミーティングといえば、ゴールがあり、そのためのアジェンダがセットされていて、良かれ悪かれ、合意の上での「結論」が出ることが、当たり前だと考えていたから。
コロナ禍を経て、オンラインミーティングが主流になった昨今、ミーティングのゴールとアジェンダはより強く意識されるようになりました。
すると、何が起きるか。ゴールのない会話、アジェンダのない会話がしづらくなる。消える。目的思考であることはもちろん賛成だけれど、余剰がないことを、どう考えるといいのだろう。それでは、と、余剰を生み出すために雑談のための雑談ミーティングが予定に入ったりする。うーん、ちょっと、ちがう。
「車内」という特殊な会話空間
少し話がそれて。
私には、仕事の関係上、年間40日間ほど時間を共にする、懇意にしていただいている、ライターさん、カメラマンさんがいる。私、ライターさん、カメラマンさん、この組み合わせで、さまざまな取材に繰り出し、それはもう、幅広い話を聞いてまわる。あちらこちらへ。
取材そのものもたいへん、インプットになるのだけれど、おもしろいのはその帰り道です。カメラマンさんが運転してくれる車で、ある駅まで向かう1・2時間。これが、特殊な場になっている。
その日の取材を振り返り・反芻したり、次はこうしようと反省会をしたりはもちろんのこと。取材の話から発展し、別の話題に移って意見交換したり、こんなことがあったという情報提供があったり。最近、こんな風に感じている・考えているという課題提起もあったり。
それは、つながりがあるようで、明確なつながりのない、3人の体感や価値観の持ち寄りのようなもので、良いも悪いも正解も不正解もない、ましてやゴールも結論もない、ゆるやかで断続的な対話なのです。
立場も視点も違う3人のやり取りは、ゴールも結論もないけれど、しかし、確かに個々人の中に、「なにか」を起こしている。刺激を持ち帰る、ヒントを持ち帰る、慰められたり励まされたりする。
「これって、寄り合い的なのかもしれないですね」と私が言うと、
「車の中という空間がいいのかもしれないですね。みんなで同じ方向を向いていて、それでいて目線を合わせなくてもいい。声だけでコミュニケーションをするけど、一緒にいるから、沈黙も含めて会話できる」と、カメラマンさんは言う。
「車中を舞台にした会話劇をつくる劇作家がいますね。タクシーの中の会話とか、やはり面白いんでしょうね」と、ライターさんは返す。
結論はまた明日
毎日、複雑です。複雑だと思います。
伝え切ることも難しければ、理解し切ることも難しい。
わからなさや、あがきのようなものを抱えながら、それでも一歩進むために、こんな、寄り合い的な場があってもいいのかもしれない。少なくとも、意識的に作ろうとしなければ、存在しない場になってしまった、と感じます。
ちょっとだけ必然性を持った、偶然のような場を大事に、いくつかの並行する視点が交差するところから、何かを持ち帰り、一歩進む。そんな日々を歩んでいけるように、僕はありたい。そんなことを考えました。
※ サムネイル画像はAIによって生成したものです。