思い出になること、ならないこと
実家を出て、何度か引っ越しするたびに、古いものを処分してきた。思い出がまだ生々しいうちは、それに紐付く何かを捨てられない。大好きだった電子玩具、ミュージシャンのポスター、友だちがくれた自作のカセットテープ。もう絶対使わないのに、机や押し入れにしまい込んで、忘れた頃に見つけては、一人で感傷的な気持ちになる。
けれどもそのうち、「ああ、こんなものに夢中になったなあ」と穏やかに感じられる日がやってくる。思い出が思い出として、出し入れ可能な脳のどこかに正しく収まり、不要なときにははみ出さない。それが処分時なのだ。モノはなくても、記憶に残る。もしも必要になれば、そっと引き出すだけでいい。過去がきちんと、過去になった瞬間だ。
机の上に、小さな土鈴がある。もう霞むほど遠い昔、修学旅行から戻ってきた恋人が、お土産でくれた。旅先が土鈴の産地だったのだ。左右に振ると、からから乾いた音がする。転居を繰り返しても、土鈴はずっと、定位置のままだ。
より正確に言うと、もらったのは恋人になる直前だった。私たちはまだ高校生で、小さくもつれた人間関係に悩み、何度か無様(ぶざま)にしくじって、その後ようやく、一緒になった。
10代と20代の数年間を、ともに過ごした。楽しかった記憶が勝るけど、よくよく思いをめぐらせば、ずいぶん喧嘩もした。そのたびに修復し、再び手をつなぐ。そんなことを繰り返した。どこにでもいる、本当にありふれた、普通の恋人同士だった。何度目かの諍(いさか)いで、いよいよ関係が修復できなくなり、別々の道を歩むようになったことも含めて、だ。
恋人のその後を知らない。誰かと結婚したらしい、とだけ風の便りで耳にした。SNSで「知り合いかも」とリコメンドされたことも、検索エンジンに引っかかったことも、一度もない。いかにもあの人らしい。シンプルを好み、いたずらに人間関係を広げることも、誰かに承認されることも、決して求めようとはしなかった。考えれば考えるほど、なんで私とつきあっていたのだろうと、不思議に感じられる。
古い土鈴を眺めて、考える。この過去だけは、いつまでたっても、きちんと過去に、ならないらしい。
死ぬまで捨てられない何かがあることが、鬱陶しくて悔しくて、ちょっとだけ、誇らしくもある。