映画「劇場」と彼女の行方
生徒会の役員をやっていた高校時代、周辺高校との交流事業があり、彼女と知り合いになった。一歳年下の彼女は、その高校の生徒会役員で、演劇部員を兼ねていた。交流事業は一度きりだったけれど、彼女とはなんとなく、その後もコンタクトをとり続けた。
私はなんの特徴もない小さな大学に進んだ。潰しがききそうだという理由で学部を選んでしまったため、専門科目にちっとも興味を持てず、哲学や文学といった一般教養ばかりを熱心に聴講した。教員免許をとっておこうと考えて、心理学や教育学も履修した。
学生運動が華やかだった頃から20年弱が過ぎていた。当時のキャンパスには独特の角張った文字の立て看こそ残っていたけれど、学生たちの圧倒的多数はノンポリだった。のちに「バブル」と呼ばれる時代である。大学まで管理教育の波が及ぶのはもうしばらく先のことで、インターネットも携帯電話もまだ普及していなかった。私はへたくそな小説を書き、弦楽器を弾いて、友だちとお酒を飲み、幼い恋愛に一喜一憂していた。
大学にはまだ「自治」と「孤高」が残っており、「産官学連携」みたいな取り組みは軽蔑された。モラトリアムは今よりずっと価値を認められていて、風前のともしびながら残置していたニューアカ(ニューアカデミズム)が、それらを側面から肯定していた。
海外に目を転じれば、天安門事件(1989年)、ベルリンの壁崩壊(同年)、湾岸戦争(1990年)、ソ連崩壊(1991年)と、世界地図が変わるぐらいの出来事が相次いでいたけれど、学生たちにはほとんど関係がなかった。日本企業はNYのロックフェラー・センターに象徴される世界中の不動産を買いあさり、この世の春を謳歌していた。ほどなく、膨れあがったバブルが弾け、日本経済が「失われた10年、20年、30年」と言われるどん底に沈むことなど、誰一人として予想すらしていなかった。
それで、近隣高校の演劇少女の話である。大学時代から社会人の初めごろ、彼女に誘われ、何度も芝居小屋に足を運んだ。第三舞台(鴻上尚史さん)や夢の遊眠社(と野田秀樹さん)に代表される小劇場「第三世代」はすでに圧倒的な人気を博しており、大きな箱(劇場)でもなかなかチケットがとれなかった。劇団☆新感線や演劇集団キャラメルボックスなど「第四世代」も、どんどん動員力をつけていた。演目の選択はすべて彼女にお任せしていたので、誘われるままに、旬や成長著しい劇団の芝居を見に行った。
彼女自身も、アルバイトをしながら、小さな劇団で演劇を続けていた。請われてチケットを買い、小ぶりな花束を片手に、下北沢や周辺の狭い芝居小屋に足を運んだ。公演がはねたあと、誘われて、劇団の打ち上げに参加させてもらったこともある。漫画や小説でしか知らなかった世界がそこにはあった。演出家や脚本家が、酔いに任せて熱く演劇論を闘わせている。私には議論に加われるほどの知識がなく、ぬるくなったビールをジョッキでちびちび飲みながら、「そうですね」とか「はじめて知りました」とか、そういう曖昧な相づちを打っていた。彼女の出る芝居は、良くも悪くも「第三世代」「第四世代」のようには洗練されておらず、かといって前衛と呼ぶには躊躇のあるご都合主義も散見されて、どう評すべきなのか、正直、よくわからなかったのだ。
そのうち仕事が忙しくなり、何度か引っ越ししたことも重なって、彼女とは疎遠になってしまった。あれは、やっぱり下北沢だっただろうか。教室ぐらいの小さな劇場で、急勾配に設けられた窮屈な座席から、青い照明に照らされた白い衣装の彼女が、無表情で何かを祈る場面が続く作品を観劇した。それが、私が足を運んだ、彼女の最後の舞台になった。
先日、「劇場」という映画をみた。原作は、芸人で芥川賞作家でもある又吉直樹さんの同名小説だ。「世界の中心で、愛をさけぶ」の行定勲監督がメガホンをとり、主演は山﨑賢人さん、ヒロインを松岡茉優さんがつとめている。映画館での封切りと同時に、アマゾンプライムでも配信され、私は仕事が終わった深夜、6・3インチのスマホでみた。近年では比較的珍しい、136分の長尺で、2日間にわけて鑑賞した。便利な時代になったなあ、と思う半面、映画をそんなふうに消費することに、一抹の後ろめたさも感じた。
山﨑さんが演じるのは、売れない小劇団の脚本家だ。いまどき原稿用紙に鉛筆で執筆している。無頼を気取った臆病者で、自分の才能のなさを自覚するのも、指摘されるのも恐れ、近しい人をひたすら傷つける。心理学の教科書に出てくるような「反動形成」だ。又吉さんが敬愛する太宰治を矮小化したような破綻者である。そんな主人公を、松岡さん演じるヒロインは、ひたすら健気に支え続ける。彼女だけは、主人公の才能を本気で信じているのだ。
太宰は1948年、幼い3児と本妻を残して、愛人と玉川上水に身を投げた。現在の羽村で多摩川から取水し、江戸へと飲料水を供給するために設けられた玉川上水は、途中、太宰が入水した三鷹を抜け、「劇場」の主舞台である世田谷を貫く。主人公が転がり込んだヒロインの古いアパートは、下北沢にあるとの設定で、ほど近い上水沿いの風景が、このうえなく印象的に描かれていた。太宰は小説家だが、又吉さんや行定監督は、たぶん、意識的に太宰の退廃的で破滅的なイメージを主人公に仮託し、そういう場面を盛り込んだのだろう。
太宰が死んだ戦後間もない昭和でも、私が足繁く劇場に通った平成の初めでもなく、令和のいまに、演劇の世界にだって、こんなアナクロニズムが残っているものか――。叙情的なモノローグが多用された映画を鑑賞しながら、そんなふうに感じ、少し鼻白んだ。夢を追う無頼(気取り)な小心者の男と、それを全身全霊で支える無垢で美しい女。言葉を選ばず言えば、まるでポルノのように男に都合のいい世界だ。
まだ何者でもなかった若い頃、芝居でも小説でも音楽でも絵画でも、何らかの「芸術」に麻疹(はしか)にかかったようにのめり込み、これで生涯、食っていけないだろうかと、一度でも夢想した過去のある男たちにとって、映画が描き出す世界は、遠い昔に諦め、手放してしまった、もう一つの可能性なのだ。だから、羨望と激しい嫉妬で、主人公に腹が立つ。でもその憤懣は、よくよく腑分けしてみると、主人公以上に臆病で、「常識」や「世間体」に縛られた己に対する後悔と、羞恥心に起因している。ヒロインのような美女に無償の愛を注がれる自信も甲斐性もない。映画を見ながら、そのことに気づいた男たちは、改めて苛立ち、絶望するのだ。どんなに時が経とうとも、かかった麻疹は完治しない。過去をセンチメンタルに遠望し、心穏やかでいられるほど、遅れた青春時代に罹患した麻疹は、軽くないのである。
ネタバレになるから、詳しくは書かないけれど、意外なラストシーンは、きっと、最後の最後までそういう男たちを悶絶させ、落涙させ、地団太を踏ませるに違いない。
私の知っているかつての演劇少女は、いまでも元気でいるだろうか。あるいは、海のものとも山のものともわからない才能の原石を、ヒロインのように支え続けて、いまに至って笑い続けていられるのだろうか。彼女が関わっていた劇団の名前を、すっかり忘れてしまった。その後の消息も、まるで知らない。