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花火の記憶

 昔話を書いていたら、思い出したことがある。私が通っていた高校のすぐそばに、小さな川が流れていた。時々、授業を抜け出して、川辺にごろんと野転んだ。夏になると、雑草が背丈ぐらいに生い茂り、護岸は校舎から見えなくなる。冷えたパックのイチゴジュースを飲みながら、ただぼんやり、青い空に浮かぶ、入道雲を眺めていた。

 高校二年の時だったと思う。学校最寄り駅の川沿いで、小さな花火大会があった。先輩後輩で連れ立ち、見に行くことにした。女子は申し合わせて浴衣をしつらえ、男子の何人かも浴衣姿で訪れた。

 チョコバナナや焼き鳥、綿菓子、かき氷。裸電球をぶら下げた屋台が軒を連ねる。窮屈な鑑賞エリアは、立錐の余地もないほど、多くの人たちであふれていた。人混みにはぐれぬよう、女子は男子と手をつないだ。

 有名どころの花火大会に比べると、打ち上げ本数も種類も少ないけれど、ほぼ直下で見られたため、迫力は満点だった。天空に大輪を咲かせ、四散する火の粉が、闇に溶けていく。私たちは何度も歓声を上げた。楽しかった。それにも増して、制服姿ではない先輩や後輩がそばにいることが、気持ちを高揚させていた。

 花火大会は、翌年か翌々年か、中止になった。打ち上げ場所のすぐそばに、高速道路のインターチェンジが計画されていたのだ。高速を出て高架をぐるりと周回し、駅近くの国道と結節する。花火は工事の邪魔になるし、何よりインター完成後、交通事故を誘発しかねない――。誰か大人が説明してくれた。私たちはとてもがっかりした。

 インターが竣工したのは、それから随分あとのことだ。複雑に入り組んだ巨大な構造物は、まるで双頭の龍が、上空から地上へと長い首を延ばしているかのようだった。しばらく前、さらに首都高のジャンクションがつながった。ネットで航空写真を検索すると、双頭どころか多頭の龍が、川辺でのたうちまわっているようにも見える。どこまでが当時の計画なのかは分からないけれど、なるほど、確かにこれでは、花火はできまい。

 今年の夏はコロナ禍で、多くの花火大会が中止になる。高校時代の花火大会のあと、何組かのカップルが生まれた。腹に響く轟音、夜空を染めるまばゆい光、漂う濃厚な火薬の匂い。五感を刺激する花火には、恋心の導火線に火をつける要素が、たくさん詰まっているようだ。今夏、恋人未満の誰かと誰かが、距離を縮める機会をなくす。なんとも残念だ。

 そうそう、余談だけれども、大事なことをつけ加えておかないとならない。あれから長い月日が経った。私の知る限り、あの夜に手を握り合った二人のうち、いまでも続くカップルは一組もない。
 ともされた炎が短命なのも、打ち上げ花火の宿命なのかもしれない。

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