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浅倉南の40年――「タッチ」が全話、無料公開中

 あだち充さんの人気漫画「タッチ」が、きょうから全話、無料公開されている。17日までの期間限定だそうだ。

 「週刊少年サンデー」で「タッチ」が連載されたのは、1981年から86年まで。私の小学校の終わり~高校時代にあたる。「タッチ」が始まった頃、少年漫画誌で人気だったのは「ジャンプ」と「チャンピオン」だった。「チャンピオン」については以前、「気分はグルービー」を取り上げた投稿で書いたけれど、「ちょっと大人でシニカル」な連載が充実していた。

 対する「ジャンプ」はこの時期、部数が300万部を超え、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。同誌のキャッチフレーズは、あまりにも有名な「友情」「努力」「勝利」。あの頃のラインナップは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」「リングにかけろ」「キン肉マン」などで、80年代、これらに「北斗の拳」「キャプテン翼」「Dr.スランプ」「キャッツ♥アイ」といった不朽の名作が加わる。部数は90年代半ばまで増え続け、ピークは95年の653万部だった。いまの朝日新聞よりも100万部以上多い。

 男子はもちろん、女子も「ジャンプ」に夢中になった。原則、毎週月曜日が発売日なのだけど、個人商店のなかには、土曜日や日曜日にこっそり売ってくれるところがあった。連載の続きが気になり、みんな、170円(80~89年の定価)を握りしめて、そういう店に通った。余談だが、いまの子どもたちは、漫画を雑誌では読まなくなったという。たいてい、アニメ化されて作品を知り、単行本を買うのだそうだ。近年のジャンプの部数は160万部弱。黄金期を知るひとりとしては、なんだか寂しい。

 ともあれ、あの頃、月曜日の学校では決まって「ジャンプ」の話題になった。私たちはちょうど、思春期にさしかかっていた。生々しく「異性」を意識し始め、甘やかで残酷な「好き」という感情を身をもって知っていく。当時はあまり、「ジェンダー(フリー)」のくびきがなかったから、女子は「女の子らしく」、男子は「男の子らしく」振る舞わねばならないと思い込んでいた。男子にとって、「友情」「努力」「勝利」は男らしさを具現化するわかりやすい要素であり、その意味でも「ジャンプ」の購読は必須だった。ちょっと大げさに言えば、「ジャンプ」は雄々しさを迫られる思春期男子のプラットフォームであり、「男の子コミュニティー」に加わるための必須アイテムでもあったのだ。近年、「ジャンプ」が振るわないのは、もしかしたら、この年ごろに、ことさら「男らしさ」を求められなくなったことが一因なのかもしれない。

 女子は「別冊マーガレット」や「りぼん」さえ読んでいれば、「ジャンプ」を併読していても、「女の子コミュニティー」からは弾かれない。「女の子コミュニティー」の寛容度が高かったともいえるし、少なくともこの時期に思春期を過ごした女子にとって、「女の子らしくあること」の社会規範は、「男の子らしくあること」よりも強度が低かったのだろう。

 当時の代表的なアイドルといえば、「タッチ」の連載開始1年前にデビューした松田聖子さんだ。のちのおニャン子クラブ(85年~)やその流れをくむAKBグループ(2005年~)などと比較して、松田聖子さんらは文字どおりの「アイドル(偶像)」だった。つまり、等身大ではない。つくられた「男子の理想像」であって、いまからはなかなか想像できないほど、同性から好かれていなかった。

 かまととぶる女性への揶揄として、「ぶりっこ」という言葉がある。当時、松田聖子さんらを形容するのに、同性を中心にしばしばこの言葉が使われた。「ぶりっこ」の考案者は漫画家の江口寿史さんだと言われる。江口さんは「ジャンプ」で「すすめ!!パイレーツ」(77~80年)を連載し、この中ではじめて「(かわいこ)ぶりっこ」という表現を用いた。

 繰り返しになるが、当時、「ジャンプ」には女子の読者も多く、少女漫画のように美しい絵を描く江口さんは、続けて同誌に「ストップ!! ひばりくん!」を発表している。あの頃の女子は、「かまとと」や「ぶりっこ」がどう受け止められるか、早い時期からよく知っていたのだ。

 当時の思春期女子が、同世代の男子ほど「その性らしくあること」に縛られなかった理由として、アイドルが完璧な偶像だったこと、そして、そうしたアイドルに対する批判や揶揄が、明確に言語化され、広く流通していたことがあげられると思う。逆説的だけど、男子に好感を持たれるには、過度に「女の子らしくあること」はかえってマイナスに作用する場合もあるのだ。もちろん、これは同性からも忌避される原因になり得る。男子よりも精神的成長が早いとされる女子は、そうした視座をしっかり内面化していたので、「ジャンプ」的な世界観は「女の子コミュニティー」にも十分、受容可能だったのだ。

 だいぶ脇道にそれてしまったけれど、「サンデー」で始まった「タッチ」に、男子は衝撃を受け、困惑した。少女誌でも活躍したあだち充さんの絵柄は繊細で美しく、登場する女性キャラクターはみんなかわいい。それまで、少年誌のスポーツ漫画といえば、ハードな「スポ根」ものが中心だった。まさに「友情」「努力」「勝利」の世界である。

 対する「タッチ」は、高校野球(や初期にはボクシング)を題材にしているものの、汗のにおいや男臭さをほとんど感じさせない。全26巻を貫くテーマは、一卵性双生児の上杉達也と上杉和也、隣に住む幼馴染の浅倉南の恋模様である。和也は早い時期にあっさり死んでしまうので、実質、主題は達也と南の恋の行方といってもいい。

 とはいえ、同じ恋愛を描いた作品でも、「別マ」で86~87年に連載された「ホットロード」(紡木たくさん)のようなシリアスさは乏しく、むしろ、全編にわたってコミカルな要素と罪のない程度のエロがまぶされている。そのうえ、なんでもできる美少女の南に、終始想いを寄せられるのは、和也との比較で劣等生に設定された達也なのだ。これが男子を夢中にさせないわけがない。

 ただ、こうしたラブコメに耽溺することは、当時の「男の子コミュニティー」では決して許されていなかった。男らしくあることに縛られて、男子はみんな、隠れキリシタンの聖典ように、「タッチ」を読んだ。決しておおっぴらに「あだち充の『タッチ』が好きだ」とは口にできず、こっそり「サンデー」を買うか立ち読みし、単行本が出るのを声を潜めて待っていた。男子がカミングアウトできるようになったのは、80年代後半、松田聖子さんら「正統派アイドル」のオルタナティブとして、おニャン子クラブが世間に認知された以降だと思う。

 恋慕の対象は、決して偶像だけでなく、幼なじみや同級生、身近な先輩や後輩だって構わない。意図的に「クラスのちょっとかわいい女の子」の線を狙って結成されたおニャン子クラブは、アイドルにのめり込めずにいた「普通の男子たち」の圧倒的な支持を得た。相手が身近な異性である以上、ことさら「男らしく」振る舞ってみせても無駄である。「努力」「勝利」ばかりでなく、「怠惰」「敗北」を見られた上での恋愛だって、きっと十分成り立つはずだ。そんな意識が一気に男子に膾炙(かいしゃ)して、「あだち充作品」はようやく「男の子コミュニティー」で解禁されたのである。

 でも、ちょっと考えてみればわかるけど、おニャン子クラブのメンバーなんて、どのクラスにも当たり前にいるはずがない。もちろん、学校に何人かは美少女だって存在するだろうけど、ほとんどの男子にとっては見上げるような高嶺の花だ。無条件で自分を好きでいてくれる、かわいい幼なじみが隣に住んでいる幸運に至っては、宝くじに当たるような確率だろう。

 明らかに手が届かない偶像ではなく、「もしかしたら自分にも」なんて夢想を男子に抱かせる分だけ、本当はおニャン子クラブや南ちゃんのほうが罪深いのだ。煎じ詰めると、松田聖子さんもおニャン子クラブも南ちゃんも、思春期をこじらせた男子にとって、イマジナリー(的)な存在であるという点では、まったく等価なのである。

 南ちゃんは、女性受けがよろしくない。「嫌いな漫画の女子キャラ10選」みたいな記事が企画されると、たいてい上位にランクインする。アンケートに答えた女性たちいわく、「はじめから達也が好きだったくせに、思わせぶりに振る舞われた和也が本当に気の毒」「容姿端麗、文武両道なのに、好きな男のために野球部の女子マネをやるって、どうなのよ」「高校生になっても自分を『南』と呼ぶのはあざとすぎる」……とさんざんだ。うんうん、とてもよくわかる。きっと、リアルに南ちゃんがいたら、男子はそろって熱を上げ、女子は全員、怒髪天だろう。でも大丈夫。南ちゃんは、絶対に現実にはいないから。

 「タッチ」は来年、連載開始から40年を迎える。終了後、何作かアニメ映画がつくられ、いまでも高校野球の応援でブラスバンドがテレビアニメの主題歌を演奏する、といった事情はあるが、ここまで「タッチ」が読み続けられる最大の理由は、作品そのものが持つ普遍的な強度にあるに違いない。遥か昔に青春を終えた女性たちが、何十年もルサンチマンを抱え続けられる浅倉南というキャラの強さもその一要素である。

 私も随分年をとったが、南ちゃんだって五十路半ばを迎えたはずだ。今でも自分を下の名前で呼ぶ、美魔女になっているのだろうか。せっかくの機会だ。ウェブで「タッチ」を読み直し、改めて呪詛を吐いてみようかと思っている。ムフ♡。

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