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「煙の中の影」

薄暗い部屋の中で、静かに煙管をふかす音が響いていた。矢部は、古びた畳の上に座り、煙をゆっくりと吸い込み、静かに吐き出した。白い煙がゆらゆらと天井に向かって漂い、やがて消えていく。

その瞬間だけ、彼は過去から解放されるような気がしていた。 矢部は一度も会ったことのない父親から、この煙管を受け継いだ。父が遺した唯一の物だった。それは重厚で、時代を感じさせる美しい装飾が施されていた。

矢部が少年だった頃、母から聞かされた父の話は、いつも影のある人間だったと語られていた。仕事と名声に囚われ、家族を顧みることなく姿を消した父。それでも、矢部はその煙管を手にすると、何故か父の気配を感じることができた。 夜になると、矢部は決まってこの部屋に籠り、煙管をふかす。それは一種の儀式であり、彼が自らを保つための唯一の方法だった。

煙を吸うたびに、彼は父が感じたであろう孤独と重圧を、自分の中に取り込んでいくかのようだった。だが、その煙が消え去る瞬間には、父の存在もまた、儚く消えていく。 ある夜、矢部はふと、いつもと違う感覚を覚えた。煙管を握る手が震え、胸の中に言いようのない不安が広がっていく。彼は煙を吸い込むが、いつもの安らぎが訪れなかった。

まるでその煙が彼を拒絶しているかのように、胸の奥に苦しさだけが残った。 矢部は煙管を置き、畳に顔を埋めた。涙が溢れ出し、彼はその理由もわからぬまま泣き続けた。父の影を追い求め、自分を見失ってしまったことに、ようやく気づいたのかもしれない。

煙管からは、まだ微かな煙が立ち上っていたが、それもやがて消え去り、部屋には静寂だけが残った。 朝が訪れ、矢部は決心した。彼は煙管を丁寧に布で包み、押入れの奥深くにしまい込んだ。そして、初めて部屋の外に出て、冷たい朝の空気を吸い込んだ。空は曇っていたが、彼の心には一筋の光が差し込んでいた。

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