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爽やかは秋しか使えないのか

令和3年4月30日の日記
涌井慎です。趣味は新聞各紙のコラムを読むことです。少し前ですが4月22日、福島民報の「あぶくま抄」を引用します。

「きょうは爽やかな陽気ですね」。福島市の事業所に入りたての社員が年配の上司に話し掛けた。すると、けげんな顔をされた。

「爽やか」がいけなかった。俳句の世界では秋の季語で、春の晴天を形容するにはふさわしくないとされる。「春の天気に『さわやかな』は駄目なんです。『すがすがしい』にしなければいけないんです」。以前、お天気キャスターが本紙で語っていたのを思い出す。俳句歳時記を引くと、「麗か」や「長閑」など時節の季語が並ぶ。

これについては、私は数年前に池上彰さんの著書に書いてあったのを読んだことがあり、知っていました。池上さんは子供向けのテレビ番組を担当していたとき、さきほどの事業所に入りたての社員のように秋ではない時期に「爽やか」を使い、視聴者からお叱りを受けたといいます。私はこの池上さんの著書を読む前は季節にかかわらず「爽やか」を使っていましたが、読んでからは秋にしか使わないようにしています。ただ、使っている人がいてもそれを否定することはしていません。とはいえ、いつも秋以外に「爽やか」を使っている人がいるたびに「秋の言葉なんだけどな」と脳裏をよぎるようになってしまい、正直、鬱陶しかったりもします。いつでも爽やかでええやん!という自分と、いやいや、せっかく「すがすがしい」っていう、「爽やか」以外にふさわしい言葉があるんだから、あえて爽やかを使う必要はないじゃないか。と昔のアニメでよく見た心の中の天使と悪魔の囁きのように、脳内で言い争いが起きるのです。なんにせよ、めんどくさい。

そんなことを久しぶりに思い出したかと思ったら、翌日4月23日の奈良新聞「国原譜」には「初夏の陽気と、薫風の爽やかさに心も晴れ晴れといきたいものだが、コロナ禍ではそうもいかない。」とあり、さらに4月26日の岩手日日新聞「日日草」には「青空の下、民家の庭先でこいのぼりが爽やかな春風を受けて泳ぐ光景を見掛けるようになった。」、4月27日の秋田魁新報「北斗星」には「秋田市の雄物川の堤防を歩くと四季折々の草花の変化に出会えるのが楽しみだ。今の時期なら爽やかな川風を受けながら、赤紫色のヒメオドリコソウの群落に交じって鮮やかな黄色のタンポポや菜の花が咲き誇る姿に出会う。」とありました。実に3紙の「顔」ともいえるコラムで春に「爽やか」を使っていたのです。

この3紙を読むたびに、私は「あ〜あ、爽やかは秋の季語なのにな」「いやいや新聞様が使ってるんやさかい、もはや爽やかは全季節共通語でええやろ」とまたまた脳内戦争をはじめたのでありました。

実際のところ、福島民報「あぶくま抄」に出てきた年配の上司のように春に「爽やか」を使ってけげんな顔をする人は今、どのくらいいるのでしょうか。こんなところにも日本語の「揺れ」を感じるわけです。野菜にしろ果物にしろ、季節を問わず、いつでもどんなものでも食べられるようになったことなんかも、季節限定語のオールマイティ化に影響しているのかもしれません。

少し前の京都新聞にJT生命誌研究館館長で歌人の永田和宏さんが寄稿していて、「マスク」は「冬の季語」ですが、3月26日の京都新聞の田中亜美さんのエッセーのなかに「白い部屋 マスク分別して捨てる」というコロナ禍を端的に捉えた句があったと書いていました。永田さんいわく、この句をもはや冬の句ととってはまずいだろう。作者も冬の季語としてマスクを持って来たのではないはずで、俳人の宇多喜代子さんも「今やマスクは冬の季語から解き放たれた存在であり、それでなければ今の時代は詠めない」と言っていたそうです。永田さんは、マスクが冬の季語でないとすれば、さきほどの句は「無季の句」となってしまうとし、いまマスクはいかにも宙ぶらりんの存在として、俳人はなんとなくマスクを詠むことをためらっているようにも映る。と書いています。

マスクの場合、このコロナ禍のおかげで、急激に季語としての働きを失いつつある言葉ですが、「爽やか」もひょっとすると、長い時間をかけて、秋が独り占めするのには無理がある言葉になってきたのかもしれません。
季語として使うということは、その語の存在で即、「その季節のことを詠んでいる」と想像できなければなりません。そうであるなら、マスクはもはや、冬を想起させるものではないですし、爽やかも秋の匂いのする言葉ではなくなったのではないかしら。

試しに国語辞典で「爽やか」を調べてみると、『広辞苑』第七版は●すがすがしく快いさま。気分のはればれしいさま。爽快。(季節:秋)『新明解国語辞典』第八版は●きれいで程よく冷たい大気が、一種の緊張感と清新の気を与えてくれる様子だ。『岩波国語辞典』第八版は●気持ちが晴れやかでさっぱりしているさま。三省堂国語辞典第七版(広島東洋カープ仕様)は●ほどよく冷たくて、気分がさっぱりするようす。※例として「爽やかな秋」としています。

ここまでで季節は秋であるとはっきり書いているのは『広辞苑』のみ。三省堂国語辞典は例として「爽やかな秋」を挙げていますが、「爽やか」が「秋限定」であるならば、わざわざ「爽やかな秋」と書く必要はないのであるから、「爽やかな秋」という用例を挙げているということは逆に秋以外の季節に使うことを認めているようにも思えるし、「爽やかっていうのは秋に使うんだよ」と仄かしているような気もします。『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』はどちらも「冷たい」というキーワードがあり、そんなところからも春というよりは秋に使うほうが相応しい感が醸し出されているような気もします。それにしても『新明解』の●きれいで程よく冷たい大気が、一種の緊張感と清新の気を与えてくれる様子だ。という解説は「国語辞典文学」とでも言いたい趣がありますね。

最後に『明鏡国語辞典』第三版を見ておきましょう。こちらは●気持ちがすっきりして快適であるさま。すがすがしい。爽快だ。とあり、例文の一つに、なんと驚くべきことに「爽やかな春の風」という用法が紹介されていました。これは明らかに「爽やかは秋の季語」という定説に対するアンチテーゼです。『明鏡国語辞典』には、こうして問題提起する傾向があるようです。

ここまで揺れてしまっている以上、「爽やかは秋以外に使ってはいけません!」という言い分は、いまの時代にはそぐわないのかもしれません。言葉は変わっていくものです。コンピュータのバージョンアップと同じようなものかもしれません。頑なに「爽やかは秋にしか使っちゃいけないんだよ」と言うことか、はたまた、時代にあわせて季節にかかわらず、すがすがしく爽快なことを「爽やか」と表現することか、はたしてどちらが日本語を大切にしていることになるんでしょうね。

お互いがお互いを尊重しあえば、それでいいのだと思うのですが、いまはお互いがお互いを貶めることがトレンドになってしまっていて、もっと寛容になればいいのにね。と思うのですが、いかがでしょうか。

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