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凡人はモノに追いかけられるくらいがいい
令和3年5月2日の日記
涌井慎です。趣味は新聞各紙のコラムを読むことです。昨日私は、「たとえ今、邪魔でしょうがないものでも、置いておかないと、何かのときに役立てることはできません。どうしても邪魔ならいったんどこかに預けることもできますし、収納の仕方を工夫することくらいはできるはずなのに、整理整頓を面倒くさがり、「捨てる」という、わかりやすいことしかしなくなったのも、ひょっとすると、深く考えるということを「無駄」と割り切り、お捨てになってしまったからなのではないかしら。なんて思ったりもします。」なんてことを書いて、自分が「捨てられない性質」であることを見事に正当化してみせましたが、コピーしてある新聞のコラムを読み返しておりますと、4月22日の茨城新聞『いばらき春秋』に「モノがあるとモノに追いかけられます」「持たなければどれだけ頭がスッキリするか。片づけをする時間もあっという間」という樹木希林さんの言葉が引用されていました。
昨日の私と真逆の言葉に「むむむ。」となったわけですが、しかし私の偉いところは、普段から「捨てる」ことができず、物を置いておくことに美学を感じているくせに、こうして樹木希林さんの「モノがあるとモノに追いかけられます」「持たなければどれだけ頭がスッキリするか。片づけをする時間もあっという間」という言葉が引用されている茨城新聞『いばらき春秋』をしっかりコピーして残しているところです。真逆の意見を受け止める意思があるところが偉いじゃありませんか。この樹木希林さんの言葉をわざわざコピーして手元に置いている私の所業を樹木希林さんはどう思われるでしょうか。知り合いなら聞いてみたかったのですが、残念ながら知り合いになるまでに遠くへ逝ってしまわれました。内田裕也さんとは2ショットで写真撮ったことあるんですけどね。その写真を保存してあるのも無駄なのでしょうか。
4月30日の佐賀新聞『有明抄』には将棋の羽生善治九段の著作『捨てる力』からの引用がありました。「ひとつの手を選ぶことは、それまで考えた手の大部分を捨てること」とあります。しかし、私はこの一文を読んでなお、ただ捨てればいいのか?といえば決してそんなことはないと思うのです。羽生さんはひとつの手を選ぶことによって大部分を捨てています。つまり、ひとつの手を選ぶまでには相当のボリュームを保持していることになります。いつも空っぽにしておけばいいのではなく、入れるときはどんどん入れていかないと、大事な一手を「ここぞ」の時に出すことはできないわけです。そうであるならば、羽生さんクラスの天才であるはずのない一般ピーポーの私たちは、もっと謙虚に、いつ「ここぞ」の時が来てもいいように、身近なところにあらゆるものを保持しておかないといけないんじゃないかしら。ということを思うわけです。
だって、捨てちゃったら終わりだよ?BOOKOFFに行けば手に入るものならいいけど、そうじゃないものも多いですからね。インターネットで手に入るものを持っていても、それは誰もが持っているものですから、なんの価値もないともいえます。そこに過度な価値を求めるがゆえに、自分が持っていないことの価値を上げてしまいがちになりますが、空っぽの場所に何も入れなければそれは空っぽのままですから、やはり私は、まず、大事だと思われるものを入れるところからはじめないといけないと思うのです。樹木希林さんだって、ぴちぴちの二十歳の頃には「モノがあるとモノに追いかけられます」なんて言っていなかったはずで、若さがあれば追いかけられようが引き離していたんだと思います。樹木希林さんだから、もう持っていなくていいだけであり、そんなたいした人間でない自覚があるから、私なんかは、まだまだ持っていないといけないよなー、と思うのです。
ああ、また捨てられない自分を正当化してしまった。
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