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プラスチックみたいな言葉
令和元年11月18日。
涌井慎です。
趣味は新聞各紙のコラムを
読むことです。
「岩手日報」のコラムが
有料記事になりました。
元来、それが当然なのだとはいえ、
読めたものが
読めなくなるのは悲しい。
いままで読ませてくれて、
ありがとうございました。
今日のコラムで面白かったのは
「山陰中央新報社」。
「亭主元気で留守がいい」は
科学的根拠があるというのです。
なんでも、
高齢者の老後を5年間追跡調査した
研究によると、
老後も夫と暮らす妻の死亡率は
夫がいない人と比べて2倍。
いっぽう、妻と一緒の夫の死亡率は
妻に先立たれた人などの
半分以下だったそうです。
定年を過ぎて、
夫と一緒に家にいる時間が増えると
妻が体調を崩す、ということが
けっこう起きるらしい。
こんなことにまで、
科学的根拠が存在するとは。
その「科学的」という言葉に、
なんというか、
「無駄の排除」「効率的」
「合理的」というニュアンスを
感じるのは私だけでしょうか。
何か人間的ではない、
温もりを忘れた冷たさを
感じてしまうことがあります。
「長崎新聞」のコラムでは、
佐世保市で開催された
県高校弁論大会の様子が
紹介されていました。
県立五島高1年の生徒が、
「都会と比べながら田舎の多様性に着目し、現実社会がとても複雑で予測しがたいからこそ、効率的な環境の中にいたとしても異質なものを自分の中に取り込んでいく度量の大きさが重要だ」と
論じていたそうです。
(括弧内引用)
効率ばかり求めていると、
無駄の「排除」に
繋がってしまいます。
その「排除」されるものの中には
使いようによっては宝となるものも
含まれているはずなのに。
私は文学部出身なのですが、
同じ職場で働く、
理系学科卒の女性に、
「文学部って
何のために勉強してるの?」と
真顔で問われたことがあります。
これこそ、
無駄を削いで削いでしまった
効率化の末路だと思いました。
言いませんでしたが、
「そういうことを他人に平気で
言わないようにするための
勉強をしていたよ」と
心の中で答えましたね。
効率化によって、
基礎研究費が削がれようと
していることに
危惧を抱いているのが、
歴代のノーベル賞受賞者の皆さん。
今年のノーベル化学賞を受賞する
吉野彰さんについて、
書いていたのは「毎日新聞」です。
スマホに欠かせない
リチウムイオン電池を開発したのが
吉野さんですが、
発売から5年は業績不振で
苦しんだのだそうです。
業界では、
やっと市場に出した製品が
売れない苦境のことは
「ダーウィンの海」。
その手前には基礎研究の成果を
実用に向けた研究につなぐまでの
「魔の川」、
安全性やコストといった課題を
克服し製品化するまでの
「死の谷」があるらしい。
魔の川を渡り切るためには、
渡航の安全が必要です。
その安全を担保するものの一つが
基礎研究費ではないかしら。
先の先を読む「先見の明」を
是非とも国の偉い人には
持っていただきたいものです。
その将来を見据える力、
というところで言うと、
昨今問題になっている
「プラスチックごみ」については
おそらく、何十年も前から、
問題は指摘されていたはずで、
差し迫った問題でなかったため、
先延ばし先延ばしにしてきた
皺寄せがいまになって、
やってきた、
ということなのでしょう。
これは年金問題はじめ、
日本がいま抱えている、
あらゆる問題に共通すると思う。
プラごみに関しては
「高知新聞」の「くるりポイ」が
気になりました。
「量販店で買った食品トレーの肉や魚などを「くるり」と裏返してラップにくるむ。トレーはレジ近くのごみ箱に「ポイ」し、客は中身だけを持ち帰る」(括弧内引用)
これが「くるりポイ」です。
お店の言い分は
「汁がついたままのトレーは
不衛生」「洗っていないと
リサイクルできない」。
客の言い分は、
「持ち帰ると家のごみが増える」。
さて、どちらが正しいのか。
高知新聞では、
「マナーの面からは、客の言い分に説得力はない。一方で「そもそもトレーは過剰包装では」という声もあった。」(括弧内引用)と
書いています。
「日経新聞」も同じ、
プラスチックごみ問題を
取り上げていました。
あるコンビニではレジ袋が、
なんと小から大のサイズ別のほか、
お弁当用など、全部で7種類も
用意されているらしい。
「豆腐を買うときはザルを、おでんには鍋を、それぞれ持参した時代もあった。古新聞もりっぱな包装紙だったっけ。」(括弧内引用)
そんな時代に颯爽と登場した
プラスチックは、
まさに暮らしを「効率的」にする
最たるものだったわけですが、
当時、その効率に隠れた
処分にまつわる非効率には
誰も気づかなかったのか、
はたまた知らんふりをしたのか。
なんにせよ、
あんなに愛されていたのに、
昨今毛嫌いされているのは
かわいそうな気もします。
プラスチックだって、
「くるりポイ」されたら嫌ですよ。
プラスチックも納得できるような
共存の仕方が見つかればいいのに。
効率を求めるあまり、
非効率に陥ったプラスチックは
「文学部って何のために
勉強してるの?」と聞いてきた
あの子と似ている。
ずいぶん前に言われたことなのに、
いまだに私は あの言葉を
どう処理していいか?
困っているのです。