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緒方貞子さん犬養毅問題
涌井慎です。
趣味は新聞各紙のコラムを
読むことです。
11月4日のコラムは
「朝日」「産経」
「北海道」「デイリー東北」が
「訃報」についてでした。
朝日は吾妻ひでおさん、
産経は眉村卓さん、
北海道とデイリー東北は
八千草薫さんの訃報について。
各紙コラムを読むのも趣味ですが
実は新聞の訃報を
読むのも好きです。
悪趣味とか不謹慎とか、
ひょっとすると
そんな声も挙がるかもしれませんが
よく知らなかった人の功績を
訃報によって知り、
それをきっかけにして、
世界を広げていけるために
訃報は存在するのではないかしら。
人の場合は
亡くなってからも、
作品は残りますし、
その人の歩みは歴史に刻まれ、
未来へ受け継がれますから、
亡くなる前に触れておきたかった、
という後悔こそあれ、
亡くなったことがきっかけで、
その人に触れることになるのは、
悪いことでは
ないように思うのです。
田辺聖子さん、橋本治さん、
ドナルドキーンさん、
皆さん、訃報をきっかけに
作品に触れた人たちです。
閉店する前に記念に
その店へ行くことよりは
前向きな発展性のあることだと
私は思っているのですが。
ところで、
最近の訃報で
気になったことがあります。
緒方貞子さんに関する記事で、
「緒方貞子さんの曽祖父は犬養毅」
と書かれているものを
多く見ましたが、皆さんは
これに違和感がありませんか?
私は「緒方貞子」には
「さん付け」なのに
「犬養毅」は「呼び捨て」で
あることに引っかかりました。
お亡くなりになられている点では
どちらも同じなのですから、
「緒方貞子」も
呼び捨てにするべきではないか。
いやいや、
亡くなったばかりの人を
亡くなったからといって、
すぐに呼び捨てして
物のように扱うのは
いかがなものか?と言うのであれば
「緒方貞子さん」と「犬養毅」の
境界線はどこにあるのかしら?
人は亡くなって
どれだけの月日が経つと
呼び捨てることになるのでしょう。
人々の記憶のなかから、
その人に対する
温かい感情が薄れ、
その功績が
冷静に語られることになり、
「歴史上の人物」となったとき、
人は呼び捨てされるように
なるのでしょうか。
そういえば、
もう「手塚治虫」は
呼び捨てが当たり前です。
「野中広務」はまだなんとなく
「野中さん」と呼びたいけど、
しばらくしたら
呼び捨てが板につくのでしょうか。
とにかく、
「緒方貞子さん犬養毅問題」は
もっともっと掘り下げていきたい。