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マグロがべろ〜ん
十日えびすということで京都のえべっさんへお参りにいく。午前中はさほど人が多くない。屋台も準備中のところばかり。屋台の下でタバコを吸うてるおっさん。屋台が無かったら絶対に吸わないし、仮に吸うたとしても周りの目を気にしながら吸うてるはずが実に威風堂々と吸っておられた。屋台にはそういう力もあるらしい。
えびす神社の前の通りは車が通行止めになっている。歩きながらふと多様性ということについて考えてみたのは少し前にnoteに書いた多様性に関する記事にいつもより多く「いいね」が付いていたからだ。ネット依存です、はい。
多様性が認められることが善であるとされているが、多様性があってはならない社会もある。例えば車社会。車を運転している人は絶対に一定以上視力が良くないといけないし、一定以上の反射神経が必要とされるし、そうしたスキルが一定以上ある人しか運転していないという了解が互いにあるのが車社会であり、一定以上を越えられない人は運転してはならない。
「視力の悪い私が運転できないのは差別だ!」なんて言われてもその理屈はどう頑張っても通じない。そういう決まりだから仕方ないし、そういう決まりが無いと危ない。
思うに校則などに見られるよくわからない厳しいルールというのは、車社会のようにして多様性を排除しようとしているものの、「そういう決まりが無いと危ない」ということが全く無いのが問題だ。金髪を禁止にしないと何が危ないのか、下着を白にしないと何が危険なのか。これは校則に限った話でもない。同性婚は何故認められないのか、夫婦別姓ではどうしていけないのか。「そういう決まりが無いと危ない」ということは全く無い。
思えば十数年前までは車社会が当たり前であったが、いま、都市部に暮らす人のうち、車を所有しているのは全体の何パーセントくらいだろうか。車というのは強さの象徴でもあると思うが、その強さをステータスとして持っている人ってどのくらいいるのでしょう。車の持つ強者性というのか、それが以前と比べて決して絶対ではなくなったこの時代に多様性が謳われるようになったのは興味深いし、私が勝手にこじつけているだけでもある。
そんなことを考えて、えびす神社の参道を歩く。たこ焼き、甘酒、もつ煮込み。いい匂いがしやがる。甘酒は300円もした。高いと思った。サッカーの本田さんがラーメン730円は安すぎると言った。しかし私の給料はもっと安いからな。ラーメン730円は安いと私が言える世の中になればいいのに。そのための十日えびすでもある。いや、そのためには私たちが頑張るんじゃなくて国にも頑張ってもらわないと。だってお賽銭を10円玉にするか100円玉にするかでけっこうな時間、悩んでしまうんだよ。そこは逡巡なく、なんだったら500円玉を放り込みたいものではないか。
いつものように賽銭箱の奥にはマグロが横たわっていた。夏場ではあんなにずっと置きっぱなしにはできないだろうな。だから十日えびすは冬なのかもしれない。つまり、お正月が寒いうちなのもすべてあのマグロを横たわらせるためなのではないか。それにしても今年はいつになくマグロがべろ〜んとしているような気がした。あいつは後でちゃんと誰かに食べられるんだろうか。そういうことを気にするほどに貧しくなってしまったのだ。
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