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容赦なく捨てられる隙間のデータ

令和3年5月1日の日記
涌井慎です。趣味は新聞各紙のコラムを読むことです。4月21日の京都新聞『凡語』によると、「デジタルという言葉には、本来は連続した量をとびとびの数字で表現するという意味がある。アナログから変換すると、その隙間にあるデータは容赦なく捨てられる」そうです。

断捨離ですね。
私の先輩に「1年使わなかったものは使わないんだから書類なんか無駄でしかないし捨てる」と言う人がいまして、それはそれで正しいと思うのですが、私はやはり、それでも366日めに役立つかもしれないと思い、捨てられません。それに、その場に「ある」ということ、ただそれだけで想い起こされる味や匂いなど様々な情報、記憶というものを全て「無駄」だとして切り捨ててしまう人に、上質な表現ができると思えないのです。例え「無駄」なのだとしても、そこに置いておくくらいの余裕は欲しいと思うんですよね。

だってきっと、愛とか情とか義理とか人情とかがたくさん入り混じっているんですもの。同じように、デジタル化によって容赦なく捨てられる「隙間にあるデータ」には、人間味あふれるあたたかみがあるように思います。

無駄なら何もかも捨ててしまえばよいのか、といえば、コロナ禍において、病床数や医療従事者数が不足している現状をみれば、明らかです。数年前に無駄として切り捨てられてしまったものが実は無駄であるはずもなく、我々の生命にかかわる大変に重要なものであった、という、どう考えても当たり前のことについて、土俵際、あるいは表面張力いっぱいのところで今、考えさせられているわけです。

たとえ今、邪魔でしょうがないものでも、置いておかないと、何かのときに役立てることはできません。どうしても邪魔ならいったんどこかに預けることもできますし、収納の仕方を工夫することくらいはできるはずなのに、整理整頓を面倒くさがり、「捨てる」という、わかりやすいことしかしなくなったのも、ひょっとすると、深く考えるということを「無駄」と割り切り、お捨てになってしまったからなのではないかしら。なんて思ったりもします。

4月28日の産経新聞『産経抄』に「昭和59年度のピーク時には93万台以上あったのが、令和元年度末には約15万台にまで減っている」ものについて書いていました。何かといえば、公衆電話です。携帯電話が災害発生時に通信規制を受けてつながりにくくなったのに対して、公衆電話は「災害時優先電話」として規制対象外だったため、東日本大震災の際は、公衆電話の前に長い行列ができました。

これほどまでに有事の際の必要性が明らかであるものでさえ、減少に歯止めがかかりません。令和元年度末時点で約15万台である公衆電話のうち、設置が義務付けられていた10万9千台について、さらに4分の1程度にまで減らすことになっているそうです。公衆電話事業の赤字が原因だといいます。

たった10年しか経っていないのに「スマホがあれば公衆電話なんていらない」になってしまっていることに驚きます。1年使わなかったものはみんな捨ててしまっているのでしょうか。

どれだけ役立たずに見えるものでも、時と場合によっては必要不可欠になるわけです。利便性を追い求めることがダメなわけではありませんが、それにより、手放さなくてはならないものが余りにも貴重であることも多いのだということを、なぜか身をもって痛感してもすぐに忘れてしまう人が多いのです。

4月26日の東京新聞『筆洗』に藤子・F・不二雄のSF漫画『イヤなイヤなイヤな奴』について書かれていました。宇宙船の中に一人、「イヤな奴」がいます。他の隊員にケンカの種になるようなことばかりするので、隊員たちはこの男を嫌い、結束するようになります。実は、この「イヤな奴」は宇宙船を所有する会社が雇った「にくまれ屋」でした。長い宇宙旅行の中では隊員同士のいさかいも考えられるため、共通の敵を忍ばせておくことで隊員たちの結束を維持する、というお話だそうですが、決してSFではないような気がします。

「イヤな奴」は隊員たちにとって心底不必要なものであっても、実は宇宙旅行に欠かせない存在なのです。どこをどう見るかによって見え方は変わります。私に必要ないものでも、あなたには大変に重要であるということは多々あります。そこをどれだけ吟味・検証したうえで判断するか、というのが肝なのだと思います。「不要不急」の線引きが偉い人たちによって、実に容易くなされてしまっている現状について、もっともっと、声を上げないといけませんね。

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