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他人に自分の靴を履かせたがらないこと

令和3年4月9日の日記
人間関係で線を感じること、ありませんか。例えば涌井くん、古川くん、河嶋くんの3人はとっても仲良しだと思っていたのに共通の友人の佐々木くんの結婚式に古川くんと河嶋くんは呼ばれたのに涌井くんだけ呼ばれなかったときに感じますよね。あれだけいつも一緒にいて仲良くしてるつもりだったのに、その間、佐々木くんの結婚式のことは一つも話題にならなくて明らかに隠されてる感じなのにあとあとなんとなく聞いてみたら(なんとなくしか聞けないのだ)「いやー、当然声かかってて知ってると思ったから」みたいな言い訳されるみたいな。

ものすごく線を感じる瞬間。

涌井くんも古川くんも河嶋くんも3人揃って式に出席した場合にも、例えばSNSでその式が最高であった旨を3人ともがツイートしているのに涌井くんのツイートにだけ佐々木くんが「いいね」をしない、とか。ああ、そうか、僕が思ってるほどの関係ではなかったんやなーと、割と落ち込むんですが、人というのは賢いものでして、似たようなことが続くとなるべく傷つかないように、こちらから線を作るようになるんですよね。

そういう人にとって、近頃の「人は人、私は私」という時代の流れは渡りに舟なのか、といえば決してそんなことはなく、「そういう人」のなかには、自分の作った線を取り除いてこっちに入ってきてほしいと願っている人もいるんですよね。自分から線を越えて行くのは傷ついてしまいそうだから勇気が出ないんだけど、それは決して、あきらめているからではなく、どうせダメなのだとしたら、せめて希望は希望のままにしておきたい。そうすれば灯火は消えることはないのですから。というタイプもいるわけです。

このタイプは線の向こう側にいる人の想像を越える頻度で傷ついているものです。あれ?なんか僕の知ってる話してるのに僕のことを寄せてくれないんや。とか、あれ?その一斉メール、僕には届いてないんですけど。とか、あれ?あれ?あれ?僕が返信した途端にグループLINEの会話終わるんや。とか。僕の返信のしばらく後に古川くんが返信したら、おいおい、そっちには返すんや!とか。

重箱の隅を突っつくかのようにして傷ついていくような人間は線を作っておくほうが、何かと楽ではあるわけです。自分はそこまで極端ではないですが、比較的そっち側の人生を送ってきています。だから、そっち側の人生を歩んできてない人なんだな、この人は。という人に出会うとすごく眩しい。眩しすぎてついていけなくて憎たらしさを感じながらも強く惹かれたりもするんですよね。しかし、圧倒的にこちら側の気持ちを汲み取らないので、結局こちら側の人間は傷ついてしまうし、そういう時の気持ちの持って行き方を相談したりしてみようもんなら、「そんなこと気にするからダメなんですよ」と一蹴されてしまい、なんの解決にもならなかったりします。

精一杯努めて、なんとか自分なりに頑張って自分の尊厳にとって最も大事なところについて相談してみた結果、「そんなこと」扱いされてしまうことの残酷さを当の本人が1mmも理解していないという地獄を見ることになってしまうのです。

次男が小学校に入学しました。環境がガラリと変わる4月は、私のような人間はどうしても不安が先に立ってしまいます。自分の大切にしているものを、しっかりと守る術を身につけてほしいし、簡単に折れないように育ててほしいし、反対に、人の大切なものを簡単に壊してしまうようでも困ります。

昨日の福井新聞のコラムにブレイディみかこさんのベストセラー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のなかに出てくる「シンパシー」と「エンパシー」の話が引用されていました。「シンパシー」は自分と似たような環境の人に共感を示す行為で、「エンパシー」は意見や経験が違う人の境遇まで想像できる能力のことです。「エンパシー」は「他人の靴を履いてみること」という慣用句で表されたりもします。

大事なことだと思う反面、他人に「エンパシー」を求めすぎるのも問題で、こちらが期待してしまう分、なかったときに傷ついてしまうものなんですよね。傷ついて傷ついて、ズタボロになりながら成長していくものなのかもしれませんが、あんまり他人に「エンパシー」を強要することはなく、自分が他人の靴を履くことにだけ気をつけるのが重要で、僕が履いてるのにどうして履いてくれないの?と見返りを求めてしまってはいけないのです。他人が僕の靴を履こうが履くまいが、僕は他人の靴を履いてみる努力をしますよ。という意味の「人は人、私は私」を実践していきたいものです。

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