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暮らしに「縛り」を
日常生活になんかしらの「縛り」を設けることにより世界が広がることがある。
例えば、私は新聞記事を読むときに興味あろうがなかろうが「この枠の記事は必ず読む」という箇所をいくつか作っている。そうやって「縛り」を設けることにより、その「縛り」がなければ絶対に触れないであろう世界に触れることができるのだ。
そんな風に毎日必ず読んでいる日経新聞の裏一面(他の新聞ならテレビ欄になっているところに)におととい、若松英輔さんの言葉が載っており、「幸せや生きがいは、見せびらかすものではない。これから必要なのは、発見型の幸せだ。周囲の評価に惑わされず、自らの切なるものを求める」と書いてあり、それはまさに今、私が探しているものではないかとゾクっとした。
同じ日の日経新聞夕刊「プロムナード」というコラム記事。これも誰が書いていようが必ず読むことにしており、この日は池澤春菜さんの回であった。私は正直、池澤春菜さんのことをぜんぜん知らなかったので失礼ながらあまり期待しておらず、なんなら変な縛りに縛られてよく知らない人の書いたものを読むのなんてやめようかと思っていたところ、コラム後半に「何よりわたしには大きな特徴がある。無能なのだ。びっくりするほど事務能力がない。無能なわたしが使えるシステムなら、次代はきっともっと楽にできるはず。持続可能、サステナブルとはそういうことじゃないかと思う」と書いてあり、この一節に出合えただけでもしっかりこの記事を読んでよかったと思った。
私も含め(残念ながら!)私の周りには「オレにしかできない仕事」に拘泥する人が実に多い。自信満々にその仕事のできる「オレ」について得意気に話すわけだが、本当はその仕事を誰でも代替可能とするまでがその人の仕事なのであり、それをしていないのは怠慢でしかなく、それを自慢するのは「オレは碌に仕事を全うしてません!」と叫んでいるだけなので実にカッコ悪いにも拘らず、当人はなかなかそのカッコ悪さに気づかない。気づかなければどうすればよいかといえば、どこかしらで気づかせてもらわねばならず、その機会を作るためには「縛り」が必要なのである。
「気づき」は待っていても訪れない。掴みにいかねばならない。偉くなるとそこに消極的になる。自分が勝ち得た価値観を崩されるのが怖いのだ。だから新しいことを獲得することを拒み、せっかくの新しいことに出合う機会も自分のなかにある価値観との答え合わせで終わらせてしまう。新しい「問い」を得る機会をみすみす逃してしまうことになる。そういう人は当たり前のことしか言わないからつまらない。と思っていたら今日の朝日新聞「折々のことば」で坂口安吾の言葉が紹介されていた。
ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。
こういう言葉に出合えるから、私は日々の暮らしに「縛り」を設けるのだ。
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