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何にでも依存しやすい方だと思う

令和3年4月23日の日記
4月21日の茨城新聞「いばらき春秋」の冒頭が気になりました。「何にでも依存しやすい方だと思う」と書いてあります。私はこれを「(あの方は)何にでも依存しやすい方(かた)だと思う」だと思って読んだのですが、この文章の続きが「以前、取材した元覚醒剤依存者の男性が話した」だったので、冒頭の文章は「何にでも依存しやすい方(ほう)だと思う」なのだとわかりました。自分のことを言っているのに、読み方を変えると自分以外のことを言っていることになってしまいます。読み方を変えるだけで、意味が絶対に合わなくなるんです。この「発見」は私が「方(かた)」と読まなければ、できなかったわけで、つまり、やはり失敗は発明の母なのです。

雑誌や新聞などの場合、この「方」にルビを振る必要はないと思いますが、ラジオの原稿は正しく読めないと話になりませんから、この場合は、しっかり「ほう」とルビを振るべきであると思います。同じ「方」では、例えば「そちらの方向へ」と「そちらの方向け」では読み方が「ほうこう」「かたむ」と全く変わるし意味も変わりますから、さすがに文脈で理解できるとはいえ、ルビを振るに越したことはないと思います。「行った」も「いった」のか「おこなった」のか、わからないので同様です。ラジオにはラジオの原稿の書き方があります。雑誌のライターに雑誌のライターのやり方を押しつけられても困るわけです。しかし、そちらはそちらで「文章を書くことは私たちの専門ですからラジオ風情が偉そうな口をきくんじゃない」という態度だったりします。それはもちろんそうだし、こちらもよくわかっていることなのですが。ラジオにはラジオの「気をつけないといけないポイント」がある、ということをなかなかわかってくださらない方(かた)もいらっしゃいます。

4月22日の宮崎日日新聞「くろしお」にフランスの作家プルーストの言葉が引用されていました。「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」とありました。いつも新しい目で物事を見られたら、こんなに面白いことはありません。「いばらき春秋」の冒頭を私は割と新しい目で見た気がします。

そういえば、近頃、韻を踏む楽しみを覚えたので、日頃の出来事や思ったことなんぞを韻を踏んで記録したりするのですが、今日は、長男次男の授業参観だったものですから、

玄関開けたら2分でご飯
長男朝はチョコチップ食パン
次男は焼きそばごちそーさん
授業参観、廊下で参観
コロナ退散Social Distance
1年5年、往来階段、alright guidance
それより僕と踊らん?let's dance
ボウイさんの写真の展覧伊勢丹
観覧したいがお出かけはあかん?
誠に遺憾、酒飲んで晩餐、これもあかん?
広島巨人、横浜阪神、ナイター観戦、
出るか佐藤のfull swing ホームラン
玄関開けたら佐藤のホームラン

っていうのを考えまして、facebookに投稿したのですが、思っていたよりも「いいね」が少なかったです。「ええの書けた!」っていう手応えのある時ほど、あまり「いいね」が増えなかったりします。つまり、端的に言ってしまえばズレてるんでしょうね。

どうして急に韻の話をしたかというと、「新しい発見」につながるのですが、韻のおかげで、日々の記録が思いもよらないところへたどり着くんですよね。今日に関していえば、伊勢丹や文化博物館(文博)の展覧会のことなんて、韻を踏まなければ出てこなかったわけで、それでも韻を踏むことで、それが出てきたというのは、心の中の開かずの扉を開いたような気分ですし、内的には扉を開いたのだとすれば、外的には翼をもらって羽ばたいたような心地よさがあるのです。本来、「韻を踏む」というのは「縛り」であるはずなのに、その縛りのおかげで、自由に飛ぶことができるんですから、面白いものですよね。それが「大きな発見」だとすれば、今日の「小さな発見」は「guidance」に「dance」が含まれているのを見つけたことです。『岩波国語辞典』第八版によると「ガイダンス」は●初心者に与える概略的説明●教育において、生徒の自発的な発展を期しながら一定の方向(ほうこう)に導こうとする指導 とありました。小難しい理屈を捏ねて説明したり指導したりするのなら、踊りながらやってみれば、教わる側も楽しい分、頭に入れやすいような気がします。コロナ禍における生き方のヒントを得た気がしました。

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