クリスマスプレゼントは国語辞典
京都、三条大橋の河川敷にデジタルサイネージを設置する計画を京都府が公表したところ、景観条例のルールに逆行していると反発を受けているそうです。私はこのことをTwitterで知りました。フォローしているアカウントが、この一件を伝えている京都新聞のアカウントをRTしていたことで知ったんですが、どんな記事なんか、京都新聞のアカウントに貼ってあるリンク先に飛んでみたところ、有料記事につき先が読めませんでした。藤井聡太か京都新聞かっていうくらい先が読めない。無料で情報を得ようとするおまえがおかしいと言われればそれまで何ですが、このツイート、けっこうな数RTされてるわけです。RTしてる人たちってホントにあの有料記事を読んだうえでRTしてるのかしらね。見出しだけでRTしてるんとちがうんかしらね。そういうことするからネット記事は見出しで釣ろうとすることをやめないんです。
さて。私も三条大橋の件は見出しでしか判断できないくせに今から何か書こうとしてるんですから似たようなものというか、より悪質だと思うんですが、人というのは自分のことは棚に上げるようにできているのだ。
どうも、京都府がよかれと思ってやってることが府民の需要に刺さっていないらしい。記事をちゃんと読んでいないので、この件に関してはこれ以上は書きませんが、どうでしょう、皆さんの周りにも、偉い立場の人の思いやり、優しさ、気遣いが的を外れまくっているということが無いでしょうか。例えば、わかりやすいところでいえば、親が子のことを思ってクリスマスプレゼントに国語辞典を買う、というようなことが全世界的にまかり通っているような気がするのです。これ、「全世界的に」とかなんとか書いてわざわざ一般論にしているのは、実際の私にとっての偉い人が的外れな優しさを見せていることに対する意見であることをぼかすためにそうしているわけでは決してないんですが、そういうことって本当によくあるし、しかも、やってやってるほうは「こんなに高価な国語辞典を買ってあげたよ、すごいでしょ」っていう雰囲気で「喜びなさいよ」という圧をかけてくるもんですから、こちらは苦笑いするしかない。立場が違うから見えてる景色も違うせいで、こういうことが起こってしまう。しかも、立場の偉い人は、その「ずれ」を偉いがゆえに誰からも否定されることなく、突き進んでしまうから、いつまでもずれたままであり、このずれは最初は小さな分岐点でも、気づけば北京とワシントンくらいのどうにもならない隔絶になりかねない。そうならないために必要なのは、偉い人が都度、感覚を修正することのはずなんですが、実際は偉い人に都度、こちらが感覚を寄せてしまっているため、いよいよ取り返しのつかないことになっているのです。おー、こわ。