あなたといっしょ あなたが一緒
昨日の佐賀新聞『有明抄』に佐賀西高2年の投稿について書かれていました。
「おむすびとたくあんだけのお昼でも
あなたといっしょ あなたが一緒」
この短歌への感想が綴られており、「いっしょ」が平仮名と漢字で表記されているところに着目し、柔らかな平仮名は女性、漢字は同じことを考えている男性であると、歌の視点が途中から変わっていると読み解いたそうです。
この読み解き方については、ジェンダーに関するあれやこれやを物申したい方もおられると思いますが、とりあえずその問題は置いておきまして。面白いのが、この解釈について、短歌を詠んだご本人から感謝の文章が寄せられ、ご本人いわく、「詩歌は受け手の感性に委ねられる」としつつ、その鑑賞力に感心しながら、ご本人の意図としては食べるものが「いっしょ」で、あなたとともに居るという「一緒」ということだったらしい。
このコラムを非常に興味深く読みながら、私は11月20日の朝日新聞、鷲田清一さんの『折々のうた』で取り上げられていた福岡伸一さんの「一度書かれた文字はそのまま動くことはありませんが、その文字を受け取った人の心の中で文字は自由に運動を始めます。」という言葉を思い出しました。
物語はだれでもその人なりに受け取り感じればいいという福岡さんの言葉には、読書好きとしては勇気づけられるというか、安心させられるといいますか。少し前に文學界に掲載された桜庭一樹さんの作品に対する鴻巣友季子さんの書評でバトルが勃発していましたし、小説の解釈について正しいか誤りかというところにややセンシティブであったのです。(ただ、あのバトルに関しては桜庭一樹さんの言い分にもごもっとも!という部分がありました)
解釈が変わるということでいいますと、先日リリースされた渡辺美里さんのカバーアルバム『うたの木 彼の好きな歌』は美里さんが男性ヴォーカルの曲ばかりカバーしており、斉藤和義さんの「歩いて帰ろう」は、かなり大股で歩いて帰ってる感じになりましたし、「てぃーんずぶるーす」も「Rain」も「チェリー」も背景がこんなに変わるものかと驚きました。受け取り手にたどり着く以前に、発信する人が変わるだけでも解釈が大きく変わるものなのです。
そういえば、昔、aikoがライブで「マンピーのG⭐︎SPOT」のカバーをしたという記事を読んだだけで、大きく変わる解釈ににやけてしまったものです。
作品は自分の手から離れた時点でその人のものではなくなり(著作権云々の話ではありませんよ)やがて受け手側が愛をもってそれぞれに育ませるものなのでしょう。だからたぶん、私が聴くサザンと文化人気取りでJ-POPをはなから否定するおじさんが聴くサザンはもはや違う音楽だし、あの人が私のサザンをバカにするのは滑稽なことであり、私があの人にサザンを認めさせようとするのも変な話なのかもしれない。
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