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戦争の犠牲者は甲さん乙さんとさえ呼ばれない

涌井慎です。
趣味は新聞各紙のコラムを
読むことです。

1月9日。
無料で読めるコラムのうち、
半分は中東情勢について
だったんじゃないでしょうか。
同じくらい、
相模原事件の公判について
書いたコラムも多かったです。

「母親が娘の名と写真、そして手記を公表したのは、裁判で被害者が匿名のまま「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのが嫌だったからだ。」
(括弧内「朝日新聞」引用)

母親の気持ちを察することなど、
できないと思う。
それでも察しようとする。
泣いてしまう。
泣くしかできない。
知らない人のことでも、
泣けてしまう。
その程度の想像力ならある。

もしもこれから
戦争によって、
尊い命が失われたとしたら、
犠牲になった命は
「甲さん」「乙さん」ですらなく
「数」にしかならない。
「記憶」になる前に「記録」として
「数」が残されてしまう。
そんなことが果たして
あっていいものなのでしょうか。

各紙コラムには
戦争を避けるための、
知恵が散りばめられていました。

「戦争論」に「戦争は政治の延長」という有名な言葉がある。戦争を止められるのは政治だ。(京都新聞)

『ハムラビ法典』は、無制限の報復を認めているわけではない。『コーラン』にも「報復を控えて許すなら、それは自分の罪の償いとなる」と免罪を促す記述もある。(産経新聞)

反米一色に見えるイランでも国民の本音は別のようだ。イラン・イラク戦争を経験した主婦が「戦争が何をもたらすかよく分かっている。大災難だ。回避してほしい」と訴えたと共同電が伝えている。(河北新報)

江戸時代の敵討ちにも規則があって敵討ちへの敵討ちは認められない。敵討ちによって親を殺されても、その子は親をあやめた者を討つのとは許されなかったそうだ。知恵なのだろう。永遠に続きかねない報復の連連鎖をこうして食い止める。(東京新聞)

日本とイランは、貿易などを通じて長年かけて友好関係を築いてきた。同盟を結ぶ米国と友好国イランの間に入って日本が果たす役割は、両国に自制を求める国際世論の論客たることである。(山陰中央新報)

田辺聖子と佐藤愛子の対談のなかに
「嫉妬は何も生まない」と
書かれてありましたが、
戦争なんて
嫉妬以上に何も生まない。
こんなことを
書かないといけない世の中に
なってしまったことが悲しい。

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