なるべく丸暗記しない化学史─分子はどうやって見つかったか 【Kowの探究日誌6】
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前回はドルトンの原子説までご紹介しました。
ここから、さらに「分子」という概念の誕生をご紹介します。
分子が見つかるまで
1,気体反応の法則(1808年,ゲーリュサック)
ドルトンの原子説では、現在では当たり前であるO₂やH₂のような、同種(同符号)の原子が結合した粒子はあり得ないと考えられていました。
HClのように陽性と陰性の原子が引き合うことは自然であって、「複合原子」として認められていました。
しかし、H₂などのように陽性どうしや陰性どうしの原子が結合するのは不自然だとされていたのです。
ゲーリュサックの「気体反応の法則」により、そんな原子説に綻びが生じることになります。
気体反応の法則とは次のようなものです。
例えば、次のように、(単体の)水素2体積と(単体の)酸素1体積で水蒸気2体積が生じる反応があります。
確かに、体積は簡単な整数比です。
そしてゲーリュサックは、ドルトンの原子説と自身の気体反応の法則を組み合わせて、次のように仮定しました。
しかし、ここで矛盾が生じてしまいます。
原子説を前提にしたこの仮定では、先ほどの(水素と酸素で水蒸気ができる)反応を説明できないのです。
<図1の説明Aでは>
それぞれの気体の体積に合わせてモデルを描いてみても、酸素が右辺で1つ多くなり、「質量保存の法則」に反して矛盾します。
(原子が何も無い所から突然生じることはないため。)
<図1の説明Bでは>
酸素原子を分割したモデルを描くと、両辺で原子の数は等しくなりますが、そもそも原子説では「原子は分割できない」という前提なので、矛盾します。
実は、ほとんどの気体反応は原子説で説明がついていたのですが、単体の気体間の反応ではこのような矛盾が生じていました。
なぜなら、当時は原子説に基づいて、単体の気体は分子ではなく単原子だと考えられていた(=同種の原子は結びつかないと考えられていた)からです。
単体の気体間の反応が原子説で説明できなかったので、原子説を唱えたドルトンは、ゲーリュサックの気体反応の法則そのものを最後まで認めることはありませんでした。
2,分子説(1811年,アボガドロ)
このような矛盾を解決するため、アボガドロは次のような「分子説」を発表しました。
(ドルトンはこれすらも反対していました。)
特に②(☆)は、現在では「アボガドロの法則」と呼ばれています。
先ほどのゲーリュサックの仮定(上の★)と、アボガドロの法則(上の☆)を見比べてみましょう。
アボガドロの法則は、気体に「分子」という考え方を取り入れたのが最大の特徴です。
H₂などのように、同種(同符号)の原子どうしでも結合することができると考えたのです。
(この結合は、現在は共有結合と呼び、電子を共有することで互いに結合しています。)
これにより、先ほどの水素と酸素の反応も、下のモデルを用いて矛盾なく説明することができました。
しかしながら、当時は同種の原子が結合する仕組みが解明されておらず、アボガドロの分子説は空想的なものとして全く認められませんでした。
ようやく認められたのは、アボガドロの死後4年の1860年だったそうです。
3,まとめ
「質量保存の法則(ラボアジエ)」に始まり、それに続いて「定比例の法則(プルースト)」が発見され、それを支持するために「倍数比例の法則(ドルトン)」が発表、それと同時に、これらをまとめて考えた「原子説(ドルトン)」が提唱されました。
「原子説」の後に発見された「気体反応の法則(ゲーリュサック)」との矛盾を解決するため、「分子説(アボガドロ)」が打ち立てられました。
これが、原子と分子の概念の化学史になります。
電子顕微鏡が無かった時代でも、見えない物質の法則を明らかにしようとする古の化学者達の熱意には、やはり圧倒されてしまいます。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。