抗えぬ時流…


前章


・老獪なイギリスの十八番、『分割して統治せよ』発動!

当時のインドには、三つの政治コミュニティがあった。一つはインド人の大多数を占めるヒンドゥー勢力。もう一つは、不可触民というカースト制度の更に下に置かれた、触れることすら穢れになるとされた人々(日本の江戸時代におけるえた・ひにんのようなものか)。そして、ムスリム(イスラム教徒)。

ガンディーは統一インドの即時完全な自治を要求したんだが、イギリスは、上記の三者の対立を煽ろうと、不可触民だけが立候補できる選挙区を特別枠で設けることを提案してきた。一見、被差別民に救いの手を差し伸べる政策に思える。
これに対しガンディーは、「特別枠を設けることによって不可触民の差別は固定化されることになり、差別が永遠になくならない未来に繋がる」として分離選挙を批判した
ガンディーには、イギリス側がインド内での対立構造を深めてイギリスに対抗できなくさせようとする意図が見えていた。

引用:https://www.chankome.com/entry/mahatma-gandhi#google_vignette

結果、ガンディーは分割統治そのものであるとして強く反発し、死に至るまでの断食を宣言した。

この宣言によってガンディーが断食を始めると「ガンディーを死なせてはならない!」としてインド全土で不可触民を入れなかった寺院が門戸を開き、井戸や道も不可触民に開放され、断食4日目にガンディーが衰弱して重体に陥ると、分離選挙を推していた指導者もその要求を撤回せざるを得なくなり、結論は先送りとなった。


・ガンディー、不可触民とムスリムとの孤高のサティヤーグラハ活動へ

これを切っ掛けに、ガンディーは不可触民を神の子(ハリジャン)と呼んで、彼らの解放を目指すハリジャン運動を押し進めていく。

このことが、ネルーを筆頭とするヒンドゥー勢力である「何よりもイギリスからの独立を目指すマン」からの反感を買ってしまい、袂を分かつこととなた。(65歳)
その結果、ガンディーは政治コミュニティーから離れ、インド全土を廻って”一体何が起こっているのか”というインプットに努めるようになる。

イギリス側が提案した分離選挙は、ムスリム側に受け入れられ、イギリスの狙い通り、ムスリム VS ヒンドゥー の対立が起きてしまった為、ガンディはこれも融和に導こうと、精力的に対話を行なう。

ムスリム側とヒンドゥー側は、レイプや殺人などを繰り返したりもしていて、かなり凄惨な実態があったようだ。
それでもガンディーとしては、後々に禍根を残すから、断じて対立させてはいけないと、熱心に融和に取り組んだ。(…実際に、現代に於いてはインド・パキスタン問題として、禍根を残している)
だが、ヒンドゥー側は次第にガンディーのことを、耳煩い時代遅れの老人のような扱いをし始め、聞く耳を持たなくなっていった。

ムスリム側の指導者であるジンナーも、ガンディーに絆されはするものの、ヒンドゥー側の頑なさに信頼を置けず、同胞たちの分離独立の話に寄らざるを得なかった。

独立パキスタンの初代総督ムハンマド・アリー・ジンナー


・己を高めなければならない。ヨガだ!

…ガンディーは、みんなを説得できないのは、己が未だ未完成だからと考えた。
そして、ヨガに取り組むんだが、日本人がイメージするヨガとは柔軟体操みたいなものだが、本場インドでは、克己の為の修行みたいな位置付けなんだと思う。

ガンディーが70歳時点に於いても自覚していた己の弱みは――…性欲だった
それとは別に、レイプ被害に遭った女性から話を聞こうとしても、話して貰えないという切なさもあったようだ。
ただ………その………ヨガが………七言絶句!! (振りがちゃんと七語だぜ)

当時十九歳となる孫娘と、毎晩裸で寄り添って寝て、性欲を我慢するという、男尊女卑が当り前のインドですら、ひんしゅくを買うようなもので、これでまた、ガンディーから離れていく人もいた。普通に頭おかしくなったって思われたらしい。
孫娘も、一ヶ月ほどしたところで、もう嫌だと音を上げたらしい。
…そりゃ…なあ😢


・衝撃の長男

この孫娘は、長男ハディラールの娘だったんだが、この長男が酷い人生を送っている。
ガンディーは、奥さんのカストゥルバーイをはじめとする家族一同からも、概ね理解を得ていたようだ。ヨガに付き合わされた孫娘だって、ガンディーのことを尊敬している。

ただ、長男は…お父さんと同じようにイギリスに留学したいと志し、けれど、その当時ガンディーは貧民生活に突入していたから、留学費用なんて全くなくて、頑張って知人から融通して貰ったんだ。
だがしかし、ガンディーはそれを、別の見込みある若者へと託しイギリスに留学させた。長男は、当然のように、酷く傷ついた

引用:深井竜之介さんnote


その後、長男は、博打に溺れて借金をこさえ、更には件の孫娘を8歳の時にレイプしている😭
そして、ガンディーが暗殺された半年後ぐらいに、路上で野垂れ死んでいるのが発見された。

ガンディーの意識としては、家族を特別視するのだって対立を生むから、家族を贔屓するということをやらなかった。
…まあ、孫娘をヨガの対象に選んでる辺り、家族への甘えだとも思うんだが…、ガンディーのやってることが偉業過ぎるし、なんとも言えんねえ…。


・第二次世界大戦勃発!

ガンディーは第一次世界大戦の時は、イギリスに協力したりもしていたんだが、第二次世界大戦は、この戦争自体が誤りであると反対していた。
ドイツのヒトラーに戦争をやめるように手紙を書いているが、無視された。
日本によるアメリカへの真珠湾攻撃後、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領にも参戦をやめるように手紙を書いたが、丁重な返事は貰えたものの断られた。

この当時、世界はみんな攻撃的になっていた。
イギリスがドイツによってかなり手痛い打撃を被って、チャーチル首相が徹底抗戦してなんとか追い返した状況を見て、ネルーを筆頭とするヒンドゥー勢力は、今ならインドは武力闘争で独立できると考えた。
しかし、ガンディーはサティヤーグラハの思想に基づいて、あくまで反対する。そうして、孤立していった…😢

ムスリム側がパキスタンとして独立するという運動にも反対していたが、これも支持を得られなかった。


・悲願達成、インド独立! できたが…

ヒトラーが負けて日本が負けてイタリアが負けて、第二次世界大戦は終了した。イギリスは第一次世界大戦の時点で疲弊しており、塩の行進による非協力運動で経済的にもかなり削られており、第二次世界大戦がとどめとなる感じで、世論が脱植民地支配へと傾いていった。かつてはドル箱だったが、独立運動が盛んになって統治できないから手放そうと、合理的判断に落ち着いたわけだ。

で、いよいよインド独立となり、どういう体制でインドを独立させるかと大詰めの話しになってくるわけだが、そこで出てくるのが矢張り、ムスリムとヒンドゥーの対立なわけだ。
結果、インドとパキスタンと分離しての独立が為される結果となる。その式典に、ガンディーの姿はなかった。
イギリスから派遣された最後の総督は厳かに語った。
この歴史的な瞬間に、インド独立は非暴力による自由を掲げたマハトマ・ガンディーのおかげであるということを忘れないようにしましょう。今日ガンディーはここにおりませんが、私たちの心のなかにいます。



・最期

そんなこんなを余所に、ガンディーは睡眠時間を削って、民衆の中に分け入って、融和がどれだけ大事かという話を説いて廻る。みんなはガンディーを尊敬しているので、話を聞きはするんだが、矢張り受け入れることができなかった。

そして、悲劇のときは訪れる。
30代後半の敬虔なヒンドゥー教徒であり原理主義者ナートゥーラーム・ゴードセーが、ぬかずくように跪くと、ガンディーの心臓をめがけてピストルを3発発射した。ガンディーはそのまま、崩れ落ちるように倒れた。〝ヘーラーム(おお、神よ)〟という呟きを残して。

ゴードセーから見たガンディーは、”ムスリムからヒンドゥー教徒は大勢殺されているし女性はレイプされているのに、反撃もしない、ムスリムのことしか考えてないのではないか。 ガンディーはヒンドゥーの敵だ。 その癖、影響力を持ってヒンドゥーを洗脳しようとしてくるから、殺さなきゃ!” って使命感に駆られたらしい。


ガンディーの葬儀

翌日、ガンディーの死を弔う国葬が行われ、200万人以上の人々が8キロにも及ぶ葬儀の列を作った。遺灰はヤムナー川とガンジス川、そして南アフリカの海に撒かれた。享年78歳。

最後は、ガンディーの自叙伝からの一文を引用して締め括りたい。
私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ



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