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脳構造マクロモデルで読み解く人間の行動選択#4 『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(1)

<シリーズ2> ジョナサン・ハイト
『社会はなぜ左と右に分かれるのか?』
~The Righteous Mind~
(1)まず直観、それから戦略的な思考

 『The Righteous Mind』(邦題『社会はなぜ左と右に分かれるのか?―対立を超えるための道徳心理学』)は、2020年現在、バージニア大学で心理学部教授を務め、TOP Global ThinkerやWorld Thinkerに選ばれたこともある、現在のアメリカを代表する知の人である、ジョナサン・ハイトの2012年の著作で、アメリカでベストセラーになった。日本語版は2014年に出版され、2020年までに9刷を重ねている(本レビューは日本語版を基にしている)。

 本書は、なぜ正義心(Righteous Mind)を持ったもの同士の間に対立が産まれるのか?について、その構造を人間の行動選択の原理と基盤に基づいて解説する。その上で、現在、対立が先鋭化され分断を生み出している政治と宗教を主題に、どうすれば主義主張や見解が異なる場合でもより建設的な議論が出来るのか?を展望している。
 ハイトが専門とする道徳心理学を軸に、神経科学、遺伝学、社会学、進化生物学、認知科学、などの幅広い分野の最新の研究を参照・活用し、過去の智者の言葉も幅広く引用して、分野横断、歴史縦断した俯瞰的な内容を持つ良書である。
 また、本書の核心である、人間は直観的で感情的な判断をする傾向が極めて強いことを踏まえ、この傾向に配慮した論理構成と展開順序を取っている点でも秀逸である。

 第2回の本シリーズのレビューは、この『The Righteous Mind』を数回に分けて解説し、各回のポイントについて、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RT(概要はこちらの本シリーズのプロローグを参照されたい)を援用し、ジョナサン・ハイトの放つメッセージの理解を深めよう。本書は道徳基盤という人間の行動選択の原理を取り扱っているが、脳構造マクロモデルを適用し、認知行動科学の観点を取り入れることでより理解が深まることを感じていただきたい。
 第1回は、ハイトの主張の骨子となる直観主義~道徳的な判断は「まず直観、それから戦略的な思考」~について、本書第2章に記されているハイト自身の研究過程を辿っていくことにより、1990年前後に研究分野でも当時まだ主流であった合理主義的な考え方を如何に乗り越えていくことが出来たかを感じ取って貰えると幸いである。

プロローグ~偏狭で独善的な「正義心」?~

 まず、原題の「The Righteous Mind」の意味とメッセージを考えることから本稿を始めたい。ハイトは、「はじめに」の中で、人間の心は道徳を実践するために設計されているという意味で、この書籍のタイトルを「The Moral Mind」にすることも考えたといっている。しかし、人間には生来道徳的であるだけでなく、批判的・判断的な生得的な性質を持つという意味を出すために、「The Righteous Mind」を選択したという。
 righteousという単語には、「独善的な」を意味するself-righteousにも使われているように、「他人の行動や信念との比較によって自分の正しさ(righteousness)を確信している」「偏狭な道徳性・不寛容」など、単に普遍的な正義を求める、という意味ではなく、相対的な判断に基づく選択が含まれているという捉え方がその理由である。つまり、ハイトは、批判的な含意を持たせて「The Righteous Mind」という単語を選択しているのである。直接的にいえば、(どのような場合でも相対的でなく成立するという意味で)普遍的な正義心と対比して、「偏狭な正義心」という意味が本書のタイトルにはメッセージとして含まれている。このメッセージを汲みとって、日本語版では、偏狭な正義心を含意しているという意味で、「The Righteous Mind」を<正義心>という記号を付けた表現となっている。

私は本書で、人間には(必然的に独善に至る)正義へのこだわりが一般的な本性として備わっていることを示したい』(p.15-16)

この文章に、ハイトが本書で放っているメッセージの基本的な要素が既に含まれている。「必然的に」「独善に至る」「正義へのこだわり」が、生得的な性質=本性として人間には備わってしまっている??
本稿を通じて、この表現が腑に落ちることを感じて貰えるとよいのだが。

論理的な思考は直観を上書き出来ない!?

 今回の本稿の主題は、論理的な思考と直観の関係を理解することにある。従来、主流であり、理想とされていた「論理的な思考は、直観を上書きし、理性的で合理的な判断と行動を促す」という捉え方は、ハイトは、合理主義者のファンタジーとまで評している。
 この論理を現時点ですんなり理解できる方には、ハイトの言葉遣いとして、「直感」ではなく「直観」であること、更に、「The Righteous Mind」の第一部のタイトルが「まず直観、それから戦略的な思考」(Intuition come first, Strategic reasoning second)になっていることにも、注意を向けて貰えると良いと思う。「まず直観、それから戦略的な思考」という表現は更に次の2つに分割される。「道徳的な判断は、情動に導かれた直観によって支配される」と「合理的な思考は後から理由の正当化のために行われる」である。

 論理的な思考と直観の関係を見ていくにあたり、表現を簡易化するために、論理的な思考は一旦「理性」と表現しよう。直観は「情熱」とする。理性と情熱については、3つの考え方がある。まず、プラトンを代表とする「理性が主人たるべき」という説である。これは現在も主流であり、理想とされているだろう。2つめは、プラトンと真逆で、哲学者のデヴィッド・ヒュームが1739年に主張した「理性は情熱の奴隷であり、それ以外であるべきではない。情熱に仕え従うものであるという以外の役割は持たない」
これらに対し、3つ目の考え方として、アメリカの第3代大統領トーマス・ジェファーソンが、「理性と情熱はそれぞれ独立した心の共同支配者である」という考え方もある。これは、ジェファーソンが、駐フランス公使を務めていた1786年に既婚者のイギリス人芸術家の女性と一瞬の恋に落ちたのちに、既婚女性に恋愛を語るという「情熱」と公使として礼節のはざまで修辞的な技法を駆使して書かれた手紙に出てくる主張である。
 さて、この3つの考え方は、どれが適切にその関係を表現しているのだろうか?。以降で、ハイトの研究の歩み、即ち合理主義の懐疑から直観主義への変遷を眺めながら、一方で読者自身の理性と情熱はどちらを支持するかを考えつつ、読み進めて貰いたい。

進化史観とウィルソンの予測

 道徳と論理的思考が結び付くならまだしも、道徳と直観が結び付くことについて、あなたの理性は違和感を感じていないだろうか。直観の厄介さと「直観」自体の効用を理解していく難しさを感じていただくために、現在では進化主義の大家となっており、道徳における直観的な効用を早くから展望していたエドワード・ウィルソンすら、1975年当時は激しい批判に晒されていたエピソードをご紹介しよう。話は進化論と道徳の関係から始まる。

 進化論の租ダーウィンは、道徳にも大きな関心を抱いており、同情など直観の働きにも言及していた。ダーウィンは道徳については、先天論者で、自然選択によって、道徳的な情動を予め備えた心が人間に与えられたとしていた。
 20世紀になると、先天論を道徳に反するとみなす道徳主義の流れが2つ産まれてくる。一つはもっとも豊かで反映している国家、民族、個人が適者だとする「社会進化論」(Social Darwinism)に対する人類学者たちの恐れだった。社会進化論を突き進めると、富まない者・貧者への施しは、進化の自然な進行を阻害する、という論などに繋がってしまうことが懸念された。
 もう一つの流れは、1960年代から1970年代において、アメリカ、ヨーロッパなどの大学で起こった政治的な急進主義である。急進主義的な改革志向の持ち主は、人間はどんな理想も後から獲得できる白紙の状態で生まれてくる、と考えたがる。
 スティーブン・ピンカーの『人間の本性を考える』(2002)に拠れば、1970年代は、科学者たちですら、科学の価値観よりも進歩主義的な考えを重視していた。ハイトはその代表例として、現在では新しい進化主義の大家として評されているエドワード・ウィルソンに対する当時の激しい非難を取り上げている
 ウィルソンは1975年の『社会生物学』で、アリと生態系の観察研究を軸に、いかに自然選択が動物の身体とその行動を形作ってきたかを記載している。この主張自体は論点にならなかったが、最終章で、ウィルソンは、自然選択は人間の行動にも影響を及ぼす、と示唆した。これが人種差別主義者!とレッテルを貼られ攻撃された。
 ウィルソンは当時ハーバード大の教授で、合理主義的な理論にも精通していたが、ウィルソンにとっては「合理主義者が実際にしていることは、進化によってもっとうまく説明できる「道徳的な直観」という働きに、合理主義的な理由付けを与えているにすぎない」(p.68)と捉えていた。ウィルソンは「倫理の研究は、すぐに哲学者の手から取り上げられて<生物学化>され、今まさに誕生しつつある人間の本性を対象にする最新の科学に適合するよう改変されるだろう」と予測した(p.69)
 1975年のウィルソンのこの予測は、発表当時には人種差別だという非難まで浴びることになったが、ハイトやヘンリックら社会学、生物学、認知科学などの最新の横断的な分野の研究成果の統合により、今では現実のものとなり、予測が先見性に優れたものであったことを物語っている。こうした状況も最近の欧米での進化史観による研究の再構築の流れを後押ししているともいえるだろう。

直観主義への道のり~マーゴリスの認知の捉え方
迅速で自動的な「直観」のメカニズム

 次は、ハイトが直観主義を主張する大きな契機となったシカゴ大学の公共政策担当のハワード・マーゴリスの著作との出会いの物語である。異分野である道徳心理学・発達心理学と公共政策学の研究成果は、なぜ出会い、符合することが出来たのだろうか。

 1987年にハイトが大学院に入った頃は、社会生物学への攻撃は落ち着いてはいたが、道徳心理学は、依然として、思考と情報処理の発達を扱う学問とされており、情動の進化について着目しているような研究者は皆無だった。しかし、心理学以外では、フランス・ドゥ・ヴァールの『利己的なサル、他人を思いやるサル―モラルはなぜ生まれたのか』や神経科学者のアントニオ・ダマシオの『デカルトの誤り-情動、理性、人間の脳』など情動に関わる優れた著述が世に出てきていた。ダマシオは本稿の第2回でも触れたが、脳の前頭前皮質腹内側部(vmpFC)という特定の部位に損傷を受けた患者の行動から、「合理的な思考には、直観や身体の反応が必須である。vmpFCの働きの一つは、直観を意識的な思考へと統合することだ」とするソマティックマーカー仮説を明らかにしている。

 1995年にバージニア大学でハイトが教授職を得たときも、まだ道徳心理学は道徳的な思考の研究が主であったが、発達心理学以外の分野では、何人かの経済学者、哲学者、神経科学者は、進化によって形成されてきた情動を基盤としたアプローチを模索し始めていた。ハイトも当初、バージニア大学がジェファーソンに拠って1817年に設立されたことも踏まえ、ジェファーソン流の二重プロセスを証明する実験を3年程行ったが、すべて失敗に終わったという。

 この模索していた時期に、ハイトは、シカゴ大学で公共政策を担当するハワード・マーゴリスの『パターン、思考、認知』という著作に出会う。マーゴリスの関心は、政策問題についての人々の考え方がなぜ客観性をひどく欠くことが多いのか、を理解することだった。マーゴリスは1980年代に認知科学で取られていた心をコンピュータに例えるアプローチでは、この状況は全く説明できないと考え、「政治的な思考など高次の認知を研究するのに適したモデルは、無意識下で起こる迅速なパターンマッチングによっておもに機能する、視覚などの低次の認知に見出せる」と考えた。
 ミュラー・リヤー錯視から始まるマーゴリスの著書は、ピーター・ウェイソンが4枚カード問題を通じて提起した「判断と理由付けは別のプロセスである」という説に同意し、次のように述べる。「人は何らかの判断(それ自身、脳の無意識的な認知作用によって生み出されたもので、正しいときもあれば、そうでない場合もある)を行うと、その正当性を説明すると自分が信じられる理由を作り出す。だが、この理由付けは、あとから考えられた合理化にすぎない」(p.85)

 更にマーゴリスは、「見ること」と「理由を考えること」というまったく異なるタイプの2つの認知プロセスが働いていると主張する(p.85)。
脳が大型化した動物でも、今日はどこで獲物を捕らえるかなどの「選択」や「判断」を行うが、こうした選択や判断の基礎となる心理メカニズムは、パターンマッチングであり、ミュラー・リヤー錯視で視覚に影響を及ぼしている、迅速で自動的なプログラムと同等のものだ。ミュラー・リヤー錯視では、見たり見なかったりという選択が出来るわけではなく、他方が一方より長い、ということをただ見ているだけである。マーゴリスはこのような迅速で自動的な心理メカニズムの働きによる思考を「直観的」と呼ぶ(p.86)
 一方、「理由を考えること」は「どのように自分や他の人が、ある特定の判断に至ったかと考えるかを、それによって記述する」プロセス(p.86)である。これには言語能力が必要であり、自分の意図を他の個体に明確に説明する必要に迫られた動物にしか生じえない。自動的でなく意識的なプロセスである。

 こうした、すばやい直観的な判断のあとで、ときに回りくどくなる緩慢な正当化が生じるとするマーゴリスの考えは、それまでの研究でハイトが観察してきた結果と完璧に一致した。マーゴリスの説を、ハイトは、当時大学院生のスコット・マーフィとやっていた実験で観察された状況(p.75-82)の解釈に適用し、次の見方を獲得する。

「私たちは、「なぜ自分がある特定の判断に至ったのか?」を説明する現実的な理由を再構成するために道徳的な思考を働かせるのではない。そうではなく、「なぜ他の人たちも自分の判断に賛成するべきか」を説明する、考える最も有力な理由を見出すために道徳的思考を働かせるのだ」(p.87)

「認知と情動」の区分ではなく「直観と思考」の区分
~<象>と<乗り手>~

 ハイトでも、マーゴリスの考え方を完全に理解するには何年もの時間が掛かったという。その理由の一つは、認知と情動を二分して考えるという当時の見方に凝り固まっていたから、としている。情動も一種の情報処理で、情動と認知を対比して捉えること、二分して考えることには意味がない、という結論にハイトは辿り着いた。
 この認知と情動の関係を規定する情動の働き方については、本書の第3章で触れられている「感情プライミング」などを参考にしてもらえるとよい。ここでは簡単に本書の第2章の記載を転記して説明しておこう。
 情動は段階的に生じる。情動の最初のステップは、たったいま起こったことが目標の達成を早めるのか、それとも妨げるのかを評価することである。この評価は、一種の情報処理、つまり認知であり、特定の入力パターンを検知すると、それに適切に反応する準備を整える(p.86)。
 拠って、ハイトは、道徳的な情動は道徳的な直観の一種だが、後者(道徳的な直観)のほとんどは、情動のレベルにまで達することのない、もっととらえにくいものであると、理解できるようになった。(p.89)

「私たち皆が毎日行っている、何十、あるいは何百もの、意識的な努力を必要としない瞬時の道徳的な判断や決断を称する際に、直観という用語は最適だ。これらの直観のほんの一握りが、情動に埋め込まれて私たちの心に到来するのである」(p.89)

 更に、ハイトは他のあらゆる判断と同様、「道徳的な判断は、認知的なプロセスである」ことを、そして実際には、重要な区分は直観(Intuition)と思考(Reasoning)という、二つの異なるタイプの認知能力の間にあることを悟った。ハイトは、この二種類の認知能力を、それぞれ<乗り手>(「理由を考えること」などの意識によってコントロールされたプロセス))と<象>(情動、直観、そしてあらゆる形態の「見ること」を含む自動的なプロセス)と呼ぶ。

 こうして、ハイトはジェファーソンの二重モデルをベースにしつつ、道徳判断の社会的性質を加えた、「道徳的な判断の社会的直観モデル」を考案し、2001年に「情動的な犬と合理的な尻尾」と題する論文に纏めて発表した。社会的直観モデルは、本書の第2章p.92に掲載されている。この社会的直観モデルのポイントは、情動反応を含め直観は認知の一種であり、思考の一種ではない、ということと、人の直観は他者の思考(モデルのリンク3。理由付けられた説得、と表現されている)と他者の判断(モデルのリンク4。社会的な説得、と表現されている)により影響を受けるパスがあること、即ち人が社会的な影響を受けることを取り込んでいることにある。

社会的直観モデルの効用

 社会的直観モデルをよく理解すると、道徳や政治の議論において、特にお互いの主義・主張が異なる場合に、ひどくフラストレーションが溜まる理由が分かる。誰かの意見や考え方を言下に否定しても、その人の考えを変えることは出来ないことがより理解できるだろう。

「誰かの考えを変えたいのなら、その人の<象>に語りかけなければならない。そして理由付けではなく新たな直観を引き出すには、社会的直観モデルのリンク3(理由付けられた説得)、4(社会的な説得)を活用する必要がある」(p.94)。

 このような社会的な影響、他者の言説による説得事例としてハイトは、カーネギーを例に出す。名著『人を動かす』で、直接的な対決を避け、「まず友好的な態度で始めよう」「微笑みを浮かべて」「よき聞き手になろう」「(あなたはまちがっている)などと決して言わないようにしよう」とアドバイスする。さらに、説得の秘訣は、敬意、思いやりを相手に伝え、自分の主張を始める前に、まず対話にオープンになることだ、と説く。
 このカーネギーの指摘は当たり前のように思われるかもしれないが、道徳や政治の議論では、私たちの<正義心>は簡単に戦闘モードに入ってしまい、敵の心を変えるに至らない。ここが<正義心>の厄介なところで、ハイトが偏狭で独善的と称した理由の一つである。説得には、戦闘モードではなく、カーネギーが引用しているヘンリー・フォードの言葉のように、自らの観点ばかりではなく、相手の観点からも、ものごとを見通せなければならない。この論点も非常に興味深いが、既に本稿もかなり長くなった。主義・主張が異なる状況での対話や議論を如何に建設的にするか?について、本シリーズの最後に再度議論することにしよう。

脳構造マクロモデルMHP/RTによる読解

  本稿の最後に、豊田・北島の脳構造マクロモデルMHP/RTを適用して、本稿のポイントを確認して、理解を深めておこう。
 ハイトの研究を始めた当時の道徳心理学の主流だった、道徳的思考=合理的な思考の限界と、その後にマーゴリスの著作との邂逅を得て到達した直観主義「まず直観、それから戦略的な思考」については、本稿の#3までを読んで来られた読者には、比較的理解が容易だったのではないだろうか。

北島2019OPDP

NEWEL×帯域

 簡単にMHP/RTモデルを復習を兼ねて概説すると、小脳の自律自動処理系のシステム1と大脳の論理思考系のシステム2は並列動作をするが、その作動帯域にはかなりの時間差がある。(上記の下の図ののA.Newellの時間帯域区分の黄緑の部分がシステム1、黄色の部分がシステム2の作動帯域)。拠って、知覚されたオブジェクト情報は、システム1、システム2および記憶領域に進むが、制約時間が10秒以下と短い場合、自動自律系のシステム1が作動して動作を決定する。システム2の思考は時間帯域が遅れて作動する。よって、情動と結び付いた認知が動かすのは、まずシステム1=直観(Intuition)なのである。ここに論理的な思考が差し挟まる余地はない。

 システム1とシステム2と情動との関係については、記憶構造が多階層化であることと合わせて、北島・豊田は2015年にMHP/RTをベースにしてCOGNITIVE2015で論文を発表している。イベント前の予測、イベント後の意思決定において、システム1,2と情動がどのように動作するかをケースに分けて詳述しており、システム1の作動時間とシステム2の作動時間の帯域のズレによるアウトプット(動作選択、行動選択、それを促す記憶)をどうsynchronizeするのか、などについて纏められている。今回はこの論文の内容の詳細は割愛するが、本稿との関係では、情動が過去の記憶(報酬)を発火させること、についてだけ触れておく。つまり、認知の結果、直観=情動が一度、どちらかに動き始めると、その情動の動きに釣られて、自律自動的に判断がそちらに振れていくのは、人間の脳構造として埋め込まれている仕組み、なのである。

第4回のまとめ

 ハイトの「まず直観、それから論理的思考」という道徳的判断の第一原理の肝について、上記のハイトの研究の歴史を辿る形で読解を進めたが、あなたの理性と情熱はどのような判断を下しただろうか。
 理性に抗う情熱、従来の常識や論理的思考と戦っている直観、直観と戦っている未来指向のオープンな論理的思考を、あなた自身の中に認識していただけていたら幸いである。
 次回は、引き続き、「まず直観、それから論理的思考」について、ハイトが<象>、<乗り手>と評する直観、論理的な思考のそれぞれの特質について、第3章、第4章で記載されている各分野の研究成果をピックアップして、脳構造マクロモデルMHP/RTを使った読解を行い、論理的な妥当性を深めていくことにしたい。

(the Photo at the top by @Photohiro1)

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