日本の謎規範「女性に歳を聞くのは失礼」を分析して物申す
0.はじめに
こんな記事誰が読むんだ、と自分でも思うが、書きたいので書かせてもらうことにする。今回は日本に存在する謎の規範「女性に歳を聞くのは失礼」について分析し、批判を加えたい。
まあこの時点で、
「こいつは女心がわからん奴だな」とか、
「そんなんだから【彼女】ができないんだよ」
とか宣う「方々」が出てきそうだが、そういうのは一切無視して話を進める。特に後者に関しては、こう反論させてもらおう。
「そんなんだから【彼女】という言葉から脱却できないし、それのみを基礎とした関係しか考えられず、また築けないんだよ」
と。
まあバカにつける薬はないというから、このへんにしておく。
バカは放っておくとして、早速表題に入ろう。
まずこの規範から読み取れることがある。それは男性には適用されないという点だ。つまり、男性に歳を聞くのは失礼ではない、ということになる。
この時点でダブル・スタンダードなわけだが、これだけではない。ここでいう「女性」というのはある程度歳を重ねた女性を指し、いわゆる「少女」をはじめとした若い女性は含まない。
これは皆さんも肌感覚でわかると思うが、テレビのインタビューでキャスターが幼い女の子に対し、「何歳ですか?」と尋ねるのを見たことがあるだろうし、親戚の集まりで女の子に大人たちが、「いくつになったの?」と尋ねる場面を何度も見ているだろう。
しかし、この場合は失礼にあたらない、ということになっているし、違和感を覚える人もいないだろう。
つまり、この規範はトリプル・スタンダード(三重の基準)になっているというわけだ。
1.歴史を繙くと
察しの良い方なら、もうこの時点でこの規範が如何にいい加減か、ということを理解するだろうが、そういう方ばかりではないだろうからさらに分析を進めよう。
さて、この規範の本質は何か。それはこういうことだ。
「女性はいつまでも若くありたい。だから、歳を聞いてそれを意識させてしまうのは失礼だ」
と。
ここでは「若く」というのがポイントだ。後述するが、私は歳を取ることはむしろ誇りに思って良いと思っている。その場合、歳を聞くことは何ら失礼にはあたらない。むしろ、聞かれた本人は自信を持って答えるだろう。
だが、思想や哲学を持たず、表面的なことしか見ない愚かな日本人はそのことに思い至らないらしい。
なぜこんなことになるかといえば、日本では、というか人類史的には長らく「若い女性」が珍重されてきたからだ。
昔の狩猟・農耕社会では子どもが貴重な労働力だった。したがって、子どもを何人も産めるような丈夫な女性、特に若い女性が珍重されたことが考えられる。高齢出産はリスクが伴うし、医療が未発達な昔であればなおさらだ。事実、昔は成人の儀式も婚姻も、現代社会よりはるかに若年で行われた。
逆に、高齢女性は姨捨山の話にあるように、忌避の対象となったりした。「種の存続」という目的を至上命題とする場合、高齢女性はそれに直接は貢献できないからだ(子育てを手伝うという形で間接的には貢献できるが)。
こうした歴史を鑑みれば、当の女性たちが「若く見られたい」という気持ちは理解できる。なぜなら、その「若さ」はストレートに、社会における自分の価値を保証する基準だからだ。逆に、歳取って見られることは自分の価値が貶められることであり、最悪姨捨山のように見捨てられる可能性もあったわけで、「若いかどうか」は死活問題だったのである。
しかし、現代では状況が全く異なる。食糧増産技術の進歩により、みんなが農民の時代は終わったし、産業の高度化・多様化によって様々な職業も生まれた。
そして何より、かつては貴重な労働力だった子どもは、今ではむしろ「負債」扱いになっている。産業・社会の高度化に伴い、教育・育児コストが高騰しすぎたからだ。家業を継がせるのでもない限り、産む「必然性」はないし、産んだところで「資産」にはならない。都会に出て盆正月に帰ってくるだけだ。特に、中央集権かつ大都市信仰が強いこの国ではそうなる可能性のほうが高いだろう。
つまり、現代においてはかつてほど「若く見られる」ことが死活問題ではなくなってきているし、その価値も減退しているのだ。せいぜい下半身主義の男さんに、
「若くて可愛いから食事を奢ってあげよう」
と言われて、少しいい思いをするぐらいのもの、ちょっとしたオプションがつく程度でしかないと思われる。
だから気にするな、と私は思うが、事はそう単純ではない。死活問題ではなくなったと言ったところで、恋愛や結婚、出産をするには若いほうが有利だったりするからだ。この点に関しては現代でもおそらく変わらないのだろう。
2.対抗策
まあだから、こうして歴史を俯瞰すれば、私としてもこの規範を100%無下にはできないところもある。
しかし、だからといってこの規範を積極的に是認する気にはなれない。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であり、日本における若年女性の持ち上げ方は異常だと思うからだ。
皆さんも知っての通り、この国は(良い悪いは別として)ロリコン文化である。それは萌えアニメ、ギャルゲー、アイドルの多種多様性を見れば一目瞭然だ。
これは今に始まったことではなく、たとえば紫式部『源氏物語』では光源氏が幼女「紫の上」を見初めて自分好みの女性に育てようとする?らしいし(読んでないので詳細は不明だが)、谷崎潤一郎『痴人の愛』でもカフェの女給「ナオミ」を家に連れ帰り、自分好みの女性にしようとしている。いずれもターゲットに選ばれているのは若い女性であり、歳を重ねた女性ではない。
まあこういうわけで、この国では古来より現代に至るまで若い女性が過剰に持て囃されてきたわけだ。ある意味、常軌を逸している。
では、この風潮に対抗するにはどうすればよいか。それは若年女性の欠点を認識し、歳を重ねた女性の良さを認識することである。単純明快な話だ。
第一の対抗策としては、メディアから距離を置くことだろう。テレビ、新聞、雑誌、それからSNSもそうだが、見ないこと。これに尽きる。
前にも書いたが、世の中は基本的に商業主義、金儲けの論理で動いている。そして、情報メディアはその典型である。だから彼らは、特定の商品を売るために、平気で美人を「作り出す」。肌が綺麗とされる芸能人に化粧品を宣伝してもらえば売れるし、松田聖子を持て囃せば「聖子ちゃんカット」がブームとなり、理髪店あるいは美容室が儲かるわけだ。
化粧品本来の性能は本来、誰が紹介しても変わらないはずなのだが、「美人」が宣伝するとなぜか売れる。不思議な話だ。
私は知らないが、松田聖子のような髪型なんて当時似たようなのがいくらでもあっただろう。でもテレビで聖子がスターになるとみんなそれを真似するわけだ。髪型なんて好きにしろ、と私なんかは思うのだが、なぜか真似が流行ったらしい。これも不思議だ。
このように見ればわかるが、こうした世間的な意味での「美人」というのは商業主義が生んだ「創作物」、紛い物に過ぎないのである。別に聖子がブスだと言っているのではない。充分可愛らしいルックスではあろう。
そうではなく、聖子という「スター」は商業主義のシナリオに沿った「飾り」でしかない、ということを言いたいのだ。
「美」の話は以前の記事でも書いたが、普遍的なものが「美」であって、そうでないものは「可愛い」でしかない。この点を理解していない日本人は実に多いと思う。だから日本には「可愛い」人はいても「美人」は少ない…というと怒られそうだが、言いたいことはそういうこと。普遍的なものと一時的・刹那的なものの区別がついていないのである。
では普遍的な「美」はどうやって認識すればいいのか。
これはさほど難しくない。歳を取った女性を見れば良い。
歳を取ると、「若さ」という衣、悪く言えば「虚飾」が剥がされ、その人本来の姿が白日の下に晒される。要するに、若い頃「愛嬌」や「ゴマすり」で誤魔化せていたものが、隠しきれなくなるのだ。
したがって、そうした誤魔化しに依存していた女性ほど、歳を取ったときに醜い本性を露わにする。そうした「方々」は官能的・形而下的な快楽しか求めず、精神を持たなかった人たちなので、文句ばかり口にするようになる。若い頃のように男たちからチヤホヤされることもないし、「旦那の稼ぎが悪い」ということで、ブツブツ文句ばかり垂れ流すわけだ。
これに対し、そうした虚飾を軽蔑し、ひたすら人徳を磨いてきた女性は同じように歳を重ねても、全く違う様相を呈する。朗らかさ、温かさ、誠実さが滲み出た、優しい婦人となる。人によってはむしろ、若い頃より美人だと思えてしまうほどだ。
すなわち、こうも言える。
「若さというのは戦闘スーツのようなもの。それを纏えば誰でも強く(美しく)なれる。しかし、その人本来の身体能力はスーツそのものではなく、その中の肉体にある。だから、スーツに依存していた人はそれが使えなくなったときに情けない醜態を晒すが、スーツをあくまで補助と認識し、肉体の鍛錬を怠らなかった人は、スーツが使えなくなっても生身の戦闘能力で戦うことができる」
のだと。
実に単純な話なわけだが、残念ながら日本の「女さん」の多くはこれを理解できまい。これほど文明が発達してしまった国では、身体を使うことが減り、それによって精神の鍛錬もろくにできなくなっている。エスカレーター、エレベーター、クルマ、新幹線、飛行機…こんなものばかり使っている現代人に、精神の陶冶など期待すべくもないから。
もちろん、前にも言ったが男と女は表裏一体。男さんも全く同じ結末をたどることだろう。
第二の対抗策だが、歳を取った証拠を勲章とすることだろう。
日本の女性はやたら白髪や小ジワを嫌い、染めたり隠したりする(男は男でやたら頭皮を気にしたがる)が、はっきりいって意味がわからない。黒い髪の方が美しい、などと誰が決めたのだろうか?白髪には白髪の美しさがある。なぜそれを認識しようとしないのか?
「ああ、そうか。これから私は高齢者になるのだな。なら、それにふさわしい人格を身に着けよう」
と決意する契機にでもすれば良いのに、なぜ不満をこぼすのか。
小ジワだってそうだ。シワができるということは、長年の風雪・苦労に耐えてきたという何よりの証拠。もっと誇れば良いのに、なぜ隠すのか?
晒すとみっともない?そんな表面的なところしか見ないような、思想なき連中の御託に、あなた方は耳を貸すというのか?
そして何より、白髪にせよ小ジワにせよ、これらは小娘たちにはないものだ。若さを至上価値とするこの国では、そういうものは「ないほうが良い」ものとして認識され、忌避される。
だが、私に言わせれば、そうした人間的深みを感じさせる勲章を持たない小娘たちのほうが、よほど貧相で味気なく見える。貧相というのは別に体のことではない。下半身主義者はすぐにそういうことを考えるが、ここで言っているのは精神のことだ。長い年月によって培われた温かみのある精神。これは小娘たちにはないものだ。
特に現代では顕著だろう。重い荷物を運ぶこともなくなり、電車の中でスマホをいじるだけの小娘に高邁な精神が宿ることは考えにくいだろう。まあ、数年にひとりくらいはそうした小娘に嫌気が差した「逸材的少女」が現れることもあるだろうけど、殆ど期待できまい。このぬるま湯の過剰便利社会では。
だからはっきり言おう。
「白髪も小ジワも、人生という荒波を乗り切ってきた者に与えられる、最高の栄誉であり勲章である」
と。
まあ、フロント係に若い女性を配置しておけばいい、みたいな安易な発想しかできないようなこの国でこんなことを言っても、聞く耳を持つ人がどれだけいるかは謎だが。
3.おわりに
というわけで、日本の謎規範に関する分析及び批判でした。
まあ正直言って、賢明な女性はこんな規範に囚われずに生きていることでしょう。なぜなら、彼女たちは人格を磨いているので、歳を取っても何の心配もいらないからです。身体機能は衰えても、精神機能は衰えないことを賢明な彼女たちは知っている。だから、超然としていられるのでしょう。
動揺するのは形而下的な世界に耽溺している女さんだけです。軽薄な彼女たちは精神というものを鍛えないばかりか、そもそも精神というものの何たるかさえ、知りません。だから結局、当ブログで繰り返し使っている世俗界のキーワード「酒・金・下半身」のことばかり考えているうちに歳を取り、精神なき「オバハン」になってしまう。そしてもちろん、男や乗り物に依存するばかりだった彼女たちにまともな身体機能が維持できるとは思わないので、精神と肉体、ふたつの面で堕落を続けていくわけです。
「おばちゃん」と「オバハン」。一見類義語ですが、醸し出されるイメージは全く違いますね。前者は親しみやすさがあり、後者は傍若無人でわがままな印象を受ける。まあどちらを目指すかはお任せしましょう。
ただ、若さを過剰に持て囃す日本社会って変だよね、と一言だけ付け加えて記事を終えます。
それでは。