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名作文学の限界~ローカル文学&エンタメ小説再注目のすすめ~


0.はじめに

夏目漱石、ドストエフスキー、デュマ、ゾラ、バルザック…。
いずれも19世紀に活躍した文学者だ。もちろん、他にもたくさんの「名作」文学は数多く存在する。それらはいわゆる「教養」の一つとされたし、文学好きを自称する者にとっては一種の「必須科目」ともいえるものだ。
そういった「古典的名作」を読むことの効用については昨今の「教養ブーム」で語られていると思う。そのため、効用については省略する。
今回の記事では、そうした「古典」とされる作品が抱える問題点について考えていく。


1.「古典的名作」の条件~時間と権威付け~

そもそも、何が「名作」で何が「凡作」なのか。その基準はどうやって決まるのか。まずはこれを考える必要がある。
端的に言ってしまえば、その作品が、「時の洗礼を受けてもなお、読みつがれてきたかどうか」が名作の条件である。つまり、時代や国家という枠組みを越えて長く読まれてきた作品が「古典的名作」だといえる。
つまり、一時的に話題になったが、すぐに忘れ去られる作品は「古典的名作」とはいえない、ということだ。そういう作品は時の洗礼に耐えられなかったからである。
ただし、一つ付け加えておく必要がある。それは、現在名作と言われている作品のすべてが、必ずしも書かれた当時から絶賛されていたわけではない、ということだ。フランスのスタンダールが書いた作品は特にそうだったらしい。芸術家というのは一般人とは異なる視点を持っており、先見の明や慧眼を有する者も少なくない。だから、その偉大さが一般人に理解されず、生前は不遇な生涯を送ることも多い。だが、その偉大さは後の人間によって再評価され、彼は巨匠となり、彼が書いた作品は「不朽の名作」と呼ばれることになる。
要するに、評価されるには「時間」が必要だということだ。

だが、ここで一つ注意しなければならない。
評価を下しているのは誰か?ということである。
それは、同じ文学者であったり、評論家であったり、場合によっては政治家であったりする。そうした「影響力のある人」が推薦して初めて作者と作品は「巨匠/名作」となるのだ。
つまり、ここで「過去の名作」が抱える問題が一つ明らかになる。
それは、「他者から権威づけられた作品である」ということだ。



2.「古典的名作」の問題点

(1)評価主体の制約

他者から権威づけられた作品というのは、換言すれば「自分で評価した作品ではない」ということである。たしかに、多くの人が「名作」だと判断し、それを読みついできたということは、その判断に一種の「普遍性」があるのは間違いない。それは、自分ひとりの判断が「個別性・特殊性」にすぎず普遍性を持たないのと対照的である。
しかし、「普遍性」はあっても「絶対性」はない。普遍的な価値を有するとされる名作を読んでも、必ずそれが面白く、意義深く感じられるわけではない。むしろ、作品の問題点がはっきり感じられることも決して少なくない。その原因は、一つは個人の感性の違いにある。名作だと判断したのは自分以外の数多の「他者」であって自分ではないからだ。

たとえば、皆さんは教科書に夏目漱石やドストエフスキーの名前が載っていなくても、彼らの作品を読み、それを普遍的名作だと判断しただろうか。もし「そうだ」と断言できる人がいれば、その人は教科書や評論家のお墨付きといった「権威」に依存せず、自分でその作品の価値を判断したことになる。だが、そんな人はほとんどいないだろう。大抵は「名作だから」「古典だから」「教養として」読んだはずである。ここでは評価主体が自分ではなく、他人になっているのだ。

したがって、次のようにいうことができる。
「古典的名作を自分の自由意志ではなく、《受動的に》読んだ場合、その作品が本当に名作であるか、再検討する必要がある」
つまり、お偉方のお墨付きがなくても、その作品が時空を越えて通用する名作であるかどうかを「自分で考える」ことが求められるのだ。
そうしない限り、いくら名作だと騒いだところで、その判断は権威を借りた受動的なものにすぎず、主体性が認められないからである。


(2)時代的制約

次の制約は「時代」である。要するに、古いということだ。何が古いのか。価値観や社会状況である。
もちろん、不朽の名作といわれるだけはあるので、古さを感じさせない作品もある。しかし、それでも時代の違いによる違和感がすべて解消されるわけではない。19世紀のヨーロッパ人が書いた小説を21世紀の日本人が読めば、そこには違和感が生じる。
たとえば、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』では主人公のウェルテルが既に婚約者のいるロッテに恋し、絶望する話だが、ウェルテルの行動は現代の感覚から見るとかなり異常に見える。ロッテから貰った手紙に「何度も接吻する」とか書いてあるシーンは、女性読者なら恐怖すら覚えるかもしれない。
こうした違和感が生じるのは、当時と今とで社会状況も価値観も異なるからである。
まず、当時は今ほど自由恋愛というものが発達していなかった。だから、自分が恋する相手を見つけたとき、それに執着しがちだったと推測できる。もし関係が破綻した場合、次に理想の相手と出会えるのがいつかわからなかったからだ。行動範囲が今より狭かったため、出会いの場も今より遥かに少なかったと予想できる。少ないチャンスをモノにするしかなかった。
これに対し、現代では基本的に自由恋愛が認められている。通信や交通手段も発達しているので、もし関係が破綻しても別の相手を探しやすい。だから、相手に執着しなくてもいい。むしろ、もっと良い人がいるはず、と高望みして別の相手を待ち続けることも可能だ。
よって、現代人が『ウェルテル』を読んだときに違和感を覚えてもおかしくない、といえる。環境が違いすぎるのだ。

ただ、このケースはまだいい。
当時の時代背景について巻末の解説を読むなり、自分で調べるなりすれば、「共感」はできなくとも「理解」はできるからだ。
問題は、理解すらできない場合である。
たとえば、ジャンルが変わるけれども、オペラの場合。
これはヤフー知恵袋に書いてあったことだが、「18世紀のオペラにおける愛情表現はおおげさすぎて、21世紀のニューヨークや渋谷で現在進行中の恋をとてもじゃないが表現できない」という趣旨の回答がある。
実際その通りで、時代感覚の違いから来る違和感は拭えないだろう。

日本文学の場合、『源氏物語』の光源氏が、紫の上を自分好みの女性にしようとする場面とか、垣間見といって男性が女性の暮らしを覗き見る、という当時の風習。現在なら、犯罪者・異常者として扱われかねない。
このように、あまりに現在と感覚がズレすぎていると、当時の時代背景を知ったところで理解すらできない、ということが起こりうる。
これも古典的名作が抱える問題点といって良いだろう。



(3)作者の視点/場所という制約

次に問題となるのが、作者の視点の狭さ、意識の低さによる制約である。
たとえば、夏目漱石の作風は「高踏派」と呼ばれるが、上流階級の生活は描けても、庶民の生活が描けていない、という批判は当初からあったという。
漱石が活躍した明治時代はまだ日本が貧しかった時代である。当然生活に苦しむ農民もたくさんいたはずだ。しかし、漱石の作品は高等遊民的視点が基調としてあり、庶民感覚がない、というわけだ。

他にも、場所という制約がある。これはどこに住んで、どこから物事を見るかによって作品の色彩が変わってくる、ということだ。
日本文学の名作には、東京の大学を出て、東京で暮らしている者が書いた作品も多い。そうした作品は、多かれ少なかれ「東京を中心とした視点」が入ってしまい、地方の感覚とズレが生じてしまうということである(これは文学に限らず何でもそうだが)。
たとえば、宮脇俊三氏の鉄道旅行記は確かに名文が多い。しかし、彼は東京に住んでいたこともあって、ローカル線のページの文体には「東京から見た地方」という視点がどうしても見え隠れする。自分が住んでいる場所の考えが標準化してしまっているのだ。私はそこに一つの限界を感じた。
反対に、谷崎潤一郎のように元は東京の人だったが、震災を機に関西へ引っ越し、関西視点・関西風で作品を書いていった人もいる。住んでいる場所は作風に少なからず影響を与えるのだ。

最も大きな制約は、当時の人権意識の希薄さに由来する「差別・不適切表現」である。
典型的なのがヨーロッパやアメリカの小説だ。『ロビンソン・クルーソー』『アンクル・トムの小屋』など多くの作品で差別表現がある。黒人奴隷売買の話、近代化されていない人たちを「野蛮人」と表記する、など傲慢極まりない表現を平気で行っている。こうした表現を読めば不快感を感じるのは避けられない。いかに「名作」であろうと、差別表現は許すべきではあるまい。これも限界の一つといえる。


3.ローカル文学とエンタメ小説

以上、名作文学の問題点について語ってきた。最後に、その処方箋として、ローカル文学とエンタメ小説に触れることを提案したい。
「ローカル文学」というのは、教科書に載るレベルではないが、地元の図書館や新聞で紹介される作品のことだ。時代は問わない。
北海道の場合、渡辺淳一、井上靖、八木義徳などがそれにあたると思う。彼らは教科書には載らないまでも、地元では一定の知名度がある。これまで権威に引きづられ、全国的知名度の作品ばかりを読んでいたなら、こうした地元文学を読んでみるとよいだろう。地元ならではの視点で書かれているかもしれない。

次に、エンタメ小説だが、これは「スノビズムの解毒剤」となる。
そもそも、名作文学を読む動機が何であれ、そこには一種の虚栄心、すなわちスノビズムが入り込む。「教養」のためにしろ、「人生訓を得る」ためにしろ、どこか傲慢な態度は隠しようがない。「こんなに難しい作品を、自分は理解し、役立てることができる」というわけだ。
事実、筆者も大学時代は同様の病に侵されていた。
「古典こそ正義。現代小説はつまらない。」と一蹴し、現代小説はほとんど読まなかった。仮に読んだとしても、三島由紀夫や川端康成などのビッグネームばかり読んでいた。高校時代まで読んでいたはずのエンタメ小説を全く読まなくなっていたのだ。むしろ、そういう小説は「娯楽性はあるが、文学性は低い」と切り捨て、大した評価をしてこなかった。
しかし、大学卒業後、ネット上で現代文学の再評価をする人の言説を聞き、現代文学にも興味を持つようになった。また、古典ばかりを紹介するスノビストの動画に出会い、かつての自分を重ね合わせることで違和感を感じ、エンタメ小説の再評価にも舵を切った。
そして、伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』と、かつて読んだ『屋上ミサイル』を再読することでエンタメ小説の効用を完全に思い出した。

エンタメ小説とは、とにかく読んでいて楽しい小説のことである。難しい理論や哲学は必要ない。むしろ邪魔だ。明快なストーリーや魅力的なキャラクターがいればよい。こういう作品は、純文学、古典ばかりを読んで疲れた脳を癒やし、次の読書へとつなげる力がある。すなわち、形而上学、社会問題、人間の意識や権利、といった複雑・難解なテーマを考えることで脳には負担がかかる。そのような読書を続けすぎると、精神衛生上良くない。疲れるからだ。
エンタメ小説を読めば、そうした疲れは一気に吹き飛ぶ。そこには読書の原体験、「楽しい」という要素がふんだんに散りばめられている。古典的名作にも楽しさはあるが、楽しさの性質が違う。古典的名作の面白さは「理解することで初めて得られる」もの、つまり理知的なものが多い。
これに対し、エンタメ小説における楽しさは、すこぶる感覚的なもの、深く考えすぎずに楽しめるものだ。
こういう「楽しさ」は虚栄心を解毒し、スノビズムという邪道に私たちが陥るのを防いでくれる。どんなに知性を磨こうが、傲慢なら無意味。私たちの朗らかさを蘇らせてくれる。それがエンタメ小説の偉大なる力だ。

4.おわりに

名作文学の限界をテーマに語ってきました。
限界があるとはいえ、やはり読むに値する作品は多いです。そこは各自判断して必要な量を摂取してほしいと思います。ただし、文学は何も古いものばかりではありません。現在進行系で生まれています。過去の名作ばかりありがたがらずに、今生まれている作品を素直に評価する誠実な姿勢もまた、読書人に求められているのではないでしょうか。
この記事が、読書の選択を拡げることを願って、今回はこのへんで。
ご精読ありがとうございました。

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