マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第1部 コンブレ- を読む part6
0.前回までのあらすじ
前回の記事はこちらから
夢うつつを行き来する「私」は一度眠りに入るが、幼少期に経験した恐怖を夢の中で再び思い出す。
前回同様、今回も比喩を用いて、「私」は記憶や時間について語っていく。
1.本文読解
(1)「私」は女好き?
ここでは「私」がおそらく過去にある女と経験したであろう快楽について語られている。女の名や特徴は一切言及されておらず、その人物像は不明だ。後に明らかになるが「私」は女好きであり、ここでの女性関係は一時的・刹那的なものだと思われる(漫画版で先の展開を多少知っているだけで、「私」が女好きであることがわかるところまではまだ読んでいないのですが・・・)。
仮にその関係が一時的なものだとすれば、それは前回の幼少期の記憶と同様、忘れ去られるはずだ。しかし、前回の考察にあった
「記憶は忘れたつもりでも保存されており、何かをきっかけに蘇る」
の通り、「私」の不安な精神状態に呼応して記憶が蘇ったのだろう。
(2)夢と現実の錯誤・混同
誰しも夢で見たことを現実でも味わいたくなったり、テレビで見たことのある街に行ってみたくなったことはあるはずだ。
ここでも同じことが書かれており、自分が見た夢を現実化しようとする「私」の姿がある。と同時に、その試みが幻滅に終わることも暗に語られている。
俗に言う理想と現実のギャップ、自分の「思考(理想)」と「現実」を混同してしまう、一種の錯誤である。
たしかに、夢に出てきた女がかつて会ったことのある人物だとわかれば、その人に出会いたくなる気持ちはわかる。ましてや、親しい間柄であったり、憧れていた存在であればなおさらだ。だからこそ、「私」は「全力」で女に会おうとする。
しかし、それがうまくいかないであろうことが、次の文章で巧みに暗示されている。旅人が夢に見た念願の都市に向かい、そこで夢で味わった魅力を再体験できると「考えている」という一文に。
そう。実際に旅人が味わうのは幻滅である。
「思っていたほどではなかった」
「期待していたのと違う」
こんな感想で終わってしまう。
それはなぜか。
それは、夢が「理想化された虚構」にすぎないからだ。
先ほどの、テレビで見た街に行くという例を使えば次のように説明できる。
つまり、テレビから受け取る情報は、私たちの五感が直接味わった情報ではなく、映像を通して間接的に味わった情報にすぎない。だから実際に行くと幻滅を味わうのである。
映像は編集によって、製作者が必要だと思った部分だけが抽出され、視聴者に届けられる。そして視聴者は自らの想像力によって、その街を「理想化」してしまう。映像では綺麗な花でも、実際に見たらそうでもない可能性があるし、ほどよい坂道に見えても実際はかなり急な勾配かもしれない。
そうした正確な情報は結局のところ、実際に行ってみなければわからないのだ。
話を本文に戻そう。
「私」は夢の中の女を現実に見出そうとしているが、これはおそらく失敗し、幻滅するだろう。
仮に出会えたとしても、「時間の経過」が考慮されていないために、相手の性格や容姿の変化、それに伴う相手への印象の変化や自分の価値観の変化も考慮されず、期待通りの結果が得られないと思われる。
昔の友人に久しぶりに会ったというのに、あまり楽しくなかったことがある人は多いと思うが、そこでもやはり時間の経過に伴う様々な変化(収入、社会的地位、容姿、価値観の変化)を抜きにして、昔の記憶(不変ではなく、絶えず編集され続けるもの)をもとに会いにいくために幻滅が起こる。
本文その後の「娘の思い出を少しずつ忘れていった私」という趣旨の一文を読めば、「私」が夢を現実に見いだせず、幻滅した様子が窺えるのではないだろうか。
2.最後に
今回は夢(理想)と現実を混同してしまう心理メカニズムについて考えながら文章を読んでみた。
今回の主題である「夢の現実化に伴う幻滅」は今後も何度も繰り返し描写されることから、作品全体の基調をなす主題だと思われる。
憧れの貴婦人に出会ったはずなのに不満を覚える「私」、美しいと思ったはずの娘に幻滅する「私」。
様々なところでこの夢と現実のギャップが語られる。
今回の主題を文章の中に感じたら、一度立ち止まって深く考察してもよいだろう。
プルーストは情景描写も素晴らしいが、このような考察パートもかなり読み応えがあって面白い(意味がわからないところも多いですが…)。
次回は、時間や事物に関する考察が語られていく。
今回の考察は以上です。
ご精読ありがとうございました。