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神社に親しむ暮らし~「縁結び」に物申す~

普段神さまなんか微塵も信じちゃいないくせに、正月の初詣という名の終詣や例祭の日、後は受験や就職の季節になったときだけ神社に参拝して「ご利益」にあやかろうとするのは、正直言ってどうかと最近思っていた。しかもその願いというのも、世界平和などの高尚なものではなく、「学業・恋愛成就」「商売繁盛」などの極めて個人的なものばかりなのはいかがなものか。沢木耕太郎『旅のつばくろ』にもそうした類の主張がある。
まあ確かに、かつては私も初詣=終詣だった。というか殆どの人はそうなのかな。
しかし、「伝説の少女」との思わぬ邂逅をはじめ、不思議な出来事を体験するうちに、私にも「超自然的な何か」というものが多少は身近に感じられるようになった。旅先で神社を見つけたときは参拝することが多いし、その時の願いは色々あるが、まあ旅の途中ということで「交通安全」が多い。もちろん、「世界平和」や「仲間たちの安穏」も願う。私個人の願いもなくはないが、あまり強く願うことは少ない。もはや叶えるべき望みは叶えたと思っているから、もっと自分を超えた「何か」のために願った方が良いだろうから。

そして何より、地元の神社に参拝する機会も増えた。少し前は出勤前に毎回参拝していたくらいだ(最近は不定期だが…)。『実況パワフルプロ野球9』のサクセスモード「パワフル高校編」においても練習後、神社へ行き、練習したりお参りしたりする場面があるが、これは神社という存在をゲーム内にうまく落とし込んだ好例といえよう。神社に親しむということは、それだけ自然なり、神なりが身近になることを意味し、本来はそういう状態でこそ、お参りのご利益がある、というものだろう。
だが、残念なことに我が国の軽薄な国民はそうではない。彼らは既に外国人と同様、神社仏閣を映えスポット扱いしている。それが証拠に有名な神社ばかり人だかりができるではないか。明治神宮、伊勢神宮、出雲大社、北海道神宮…その他どこでも良いが、写真を撮ることに夢中なようだ。
まあホラゲの『零』みたいに彼らが持っているカメラが「射影機」なら別だが(いや、霊と関わることになるからやめたほうが良いか…?)、ただのカメラで神社をパシャパシャ写してどうすんだ。神さまというのはカメラの中にいるのかい?
そのくせ住宅街にひっそりと佇む祠や、さして有名ではない神社には目もくれないのだ。横並びかつ権威に「忖度」するのが大好きな日本人らしいといえばそれまでだが、実に情けない話だ。八百万の神ならどこにでも宿るわけで、神社が有名かどうかは関係ないだろう。『風の谷のナウシカ』のナウシカ姫も言っている。

「私たちの神は一枚の葉や、一匹の蟲にすら宿っている」
と(正確な記述は忘れたが)。
君たちの神さまは「出雲大社」や「伊勢神宮」や「石清水八幡宮」にしかいないのかい?
情けないことを言うでない。君たちが新幹線に乗るばかりで、一瞥さえくれない車窓に映る草花や、君たちが歩くのを嫌がって依存している「クルマ」の外に生息している「あらゆる生き物」の中にこそ神がいるのではないか?だってそうだろう?八百万の神なんだから。君たちはその神さまたちを無視して「大きな神社」に行く。まるでそこにしか(ご利益を恵んでくれる)神がいないかのように。結局自分のことしか考えてないってわけっすね。

そしてその神さまへの願いの定番「縁結び」。
なんじゃそら。縁なんて自然に生まれ、自然に消えるものだろが。無理やり結んでどうすんだ。
まあ一応、わからないことはない。
結婚や結納という言葉にある通り、「下半身ベース」の関係というのは「人工的結びつき」を必要とする。なぜなら、そうしないと相手が去ってしまうかもしれんからね。だから相手を繋ぎ止めておく手段が必要になる。それが「恋愛」や「結婚」というシステム・規範なわけだ。
しかし人の心はそう単純ではない。強固な結びつきはときに束縛となる。
私はゴミ拾いをしながら出勤しているが、ごみがまとまったら袋を縛る。このとき、あまり強くは結ばない。なぜなら、強く結びすぎると、今度はそれを分別して捨てるときに開けづらくなるからだ。
恋愛や結婚も同じこと。強く結んだからといって相手が自分のものになるわけではない。それなのに相手が心変わりしただの、あーだこーだ文句を言うわけだ。何言うとんねん、君たちが自然に反して「無理やり」結ばれようとしただけだろがい。不和起こすのは当たり前やぞ。だって他人なんやから。
恋愛や結婚というのがいかに不自然で欺瞞に満ちた結合でしかないか。それを理解したからこそ、私はその道を完全に捨てた。高校生の時点で。
まあ別にその道を目指すなら止めはしないが、神さまに結んでもらおうなんて虫が良すぎると私は思いますがね。そもそも神さま信じとらんやんけ、君たち。

まあそれは置いておこう。
で、次に「出会いがない」「ご縁がない」とかぬかす「方々」に物申さなあかんな。
まあ事情はそれぞれあるだろうが、じゃあそもそもなんでそうなるのか、私が説明しよう。「予定調和的世界から抜け出そうとしないから」だ。
新幹線や飛行機がわかりやすい。あれは偶然性を徹底的に拒絶した空間だ。同じ目的を持った無個性な人間が、マネキン人形のように座席に「配置」され、ビジネススマイルを極めた「外面だけ立派な」アテンダントが「用意」される。心温まる交流や心洗われる景色など望むべくもなく(あったとしても記憶に残らない。速すぎるせいで)、忙しなく目的地へ直行し、工業製品のように「出荷」される。ちなみに「痛」勤電車も殆どこれと同じだ。
こんな空間のどこに「出会い」「ご縁」がある?しかもこれを毎日あるいはそれに近い頻度で繰り返している。そりゃ、「ご縁」などあるわけあらへんやん。お決まりのパターンってのは、偶然性、予期せぬ出来事があらへんってことやから、印象に残らないってことや。
マッチングアプリも同じや。まあよう考えたなあ、と感心しまっせ。けどな、それは所詮、「出会いがほしい」という画一的価値観の支配する空間でしかあらへん。別に悪いわけやないけど、まあ一種の限界はあるんとちゃうか。「刺激」が足らんねん。「刺激」が。別に下半身的な意味じゃあらへんけどな。
まあ、逆に言えばそうした「予定調和的空間」をなるべく避けていれば、偶然が織りなす出会い、これが生まれる可能性はあるってことや。予定調和的な空間なんて、霞が関の頭が固い役人的な空間と一緒やないか。なんもおもろないで。

はい次。そもそも「ご縁がない」ゆうとるけど、それほんまなん?
「ご縁はある」ように見えるけどな。だってそうやろ?
普段何考えて生きとります?美味しいお酒を飲みたい、おしゃれな家に住みたい、そのためにたくさんお金がほしい、そのために出世したい、そのために東京へ行きたい、そしてあの人と「キャッキャウフフ」したい。
こればっかとちゃうんか?大阪人は「拝金主義者だから嫌い」って言いはりますけど、あんたがたも同じ、というか酒と下半身まで追加しとるやないけ。人のこと言えんとちゃいますか。
あんたらことわざ知らんのか?「類は友を呼ぶ」って。
もうわかったやろ。「あんたらと欲望を同じくする人」がそのエネルギーに惹かれて集まってる。周りにいくらでもいるやないか。「ご縁」なんてそこかしこにあるで。これ全部あんたらが望んだ結果やで。
だってそうやろ?そういう形而下的欲望を超越すれば、当然それに応じた相手が集まってくるわけやし。

…まあそういうことだ。
「人工的ご縁」などまあ所詮そんなもの。求むる者の精神の高邁さに応じて、結果が出る。ただそれだけのことだろう。
ちなみに筆者は「ご縁」という枠組みは採用しなかった。代わりに「邂逅」「巡り逢い」という枠組みを採用した。
これは、まあ何度も述べているが、普通の関係の中から最高の教訓を引き出し、それを普遍的なものに昇華させる。そして、本人に最高の感謝と敬意を捧げる。再び逢えるかどうかは「天の意志」に委ね、必要なら「逢える」し、そうでなくとも不都合はない。教訓は既に自分のものになっているから…というわけだ。恣意的な「結びつき」は必要ない。むしろ邪魔だ。
世間ではそうやって「結んでもらった」くせに、うだうだ文句を言う不届き者が絶えない。もうツッコむのもアホらしいのでやめておくが、低俗な欲望しか抱けない者には、低俗な結末が待っている、ただそれだけだ。
山本夏彦は言った。
「学問のない者が旅をしても得られるものはない」と。
ならば私はこう言おう。
「精神のないものが恋愛・結婚をしても得られるものはない」と。

まあ、縁結びでも何でも好きにしてもらって構わないが、もうちょっと神さまを身近に感じられるように暮らしを変えたり、願いが叶ったのであればうだうだ文句を言う前に精神を鍛えたり、色々できることはあるはずだ。
それをせずに「出会いがない」「ご縁がない」と言うのはお門違いにも程があるだろう。神はそんな「方々」には決して微笑むまい。微笑んだとしても、気づくことはない。下劣な欲望にしか目がいかない者に、神や自然の「見えない力」を感じられるはずはないのだから。
(おわり)

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