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不妊な日々の回顧録

 29歳で結婚するもなかなか子どもを授からず。未だ見ぬ我が子を求めて・・・・・・まだ「妊活」という言葉がなかった頃に悪戦苦闘した34歳から40歳までの覚書。
 私が不妊治療していた期間は2005年から2012年までのおよそ7年間。 
 子どもが小学3年生になり、育児もそれなりに落ち着いてきた(?)ので治療の経過をざっくりまとめてみた。

1.通院開始までのあれこれ

 32歳の時に生理が止まったため、婦人科を受診したものの医師からは「何らかの理由で遅れているだけ」と言われまもなく生理が……。その後は順調だったため特に問題意識を持たず、「タイミングが悪いだけ」との自己判断で市販の排卵日検査薬を使ってタイミングを試みるも1年間妊娠せず。悩んだ挙句に通院を決める。

2.最初の通院先:自宅と職場最寄りの不妊治療もやっている婦人科医院

 フルタイムの正社員であり、仕事も多忙だったため、「帰宅途中に通い  やすいから」という理由で、自宅と職場の中間地点の婦人科医院を選択。半年間通ってタイミング法を行うも成果なし。
 通院は月1,2回程度。残業せずに帰宅すれば時間休暇も取らずに通院可能なため仕事最優先だったその頃の私にはピッタリの通院先だと思っていた。その当時は。

3.転院先その1:職場最寄りの不妊専門医院

 35歳での妊娠を強く望んでいたため、職場近くの不妊専門医院に転医。1年半通院して人工授精を2度試みるも妊娠には至らず。再度転院を決める。
 自宅からは遠いものの仕事場から車で5分のところにあったため、時間単位の休暇を取れば受診可能であった。人工授精を行った2回とも、通常どおり出勤して時間単位の休暇を2時間ほど取り、人工授精後に仕事に戻っていた。人工授精が2度成功しなかったことから、担当医からは体外受精をすすめられた。
 後日いろいろ調べて、2回目の人工授精で妊娠成立直前まで至っていた可能性に思い当たった。基礎体温が異常に高くなり、つわり症状が出始めた日も仕事が忙しいため夜8時まで残業した。当時の詳細な職種については省くが、業務内容としては事務所での提出書類の受付と審査、及び調査を行う業務に従事していた。その日は来所したクレーマーの対応に追われたため、通常業務が出来ず、残業せざるを得なかった。
 最終バスを逃したため駅まで40分歩いて電車にて帰宅。その日の夜中に猛烈な腹痛で目覚め大量出血した後、翌朝の基礎体温は元に戻りつわり症状も無くなっていた。寒さ厳しい2月半ばだった。


4.転院先その2:県内で実績のある不妊専門医院
 
 「体外受精を行うなら成功確率が高いところへ」と考え、勤務場所の隣の市にある県内でも指折りの高い妊娠成功率を誇る病院に転医。この病院で体外受精にて無事妊娠出産した知人もおり、期待が大きかった。この段階でもまだ仕事優先を貫いていたため、月に1、2回程の通院日にのみ半日休暇を取って受診していた。患者が多いため予約していても診察まで1時間程は待たされた。
 37歳だったためかなり焦っていた私は担当医に何度も「35歳を過ぎると妊娠率が落ちると聞きましたが、大丈夫でしょうか」と尋ね、その都度担当医は「30代なら大丈夫」と答えていた。
 ところが、2回目の体外受精があえなく撃沈した後、担当医から「きみはもう無理かもしれない。子どものいない人生を考えた方がいい」と言われた。誕生日を迎える秋には38歳になる年の37歳の3月のことだった。
 泣きながら約1時間車を運転して帰宅した。この日はどこをどう走って家に帰ったのか覚えていない。
 

5.次の転院先を探すまでの紆余曲折
 
  ここに至ってようやく「自分は仕事と不妊治療のどちらかを選択をしなければならない」ということを理解した。そしてこれから先、「仕事に邁進するか何が何でも治療を続けて妊娠の可能性に望みをつなぐか」を真剣に考えた末、やはり子どもをあきらめたくないという思いが強く、40歳まで治療を続けることを決意した。
 治療を続けることを決めたものの、前回治療した不妊専門病院を超える医療機関は県内にはなく、また高名な前医の院長から見放された患者を受け入れてくれる医療機関を探すことも難しそうだった。
 38歳になる年の夏休み(3連休)は「妊活のための連休」と位置づけた。1日目には全国的にも有名な不妊専門医の「1日5組限定 不妊治療相談」に予約、意気揚々と東京に乗り込むも、これまでの治療経過を記載した書類を見た医師は「あなたの治療歴を確認すると妊娠は難しい。養子を考えてみたらどうか、場合によっては力になるよ」と言い内診すらしなかった。
   がっかりしたが翌日受診予約していた大学病院に望みをつないでいたため、失望感は大きくなかった。
 関東の大学病院に受診を決めたのは、インターネット上で、この大学病院が私の不妊原因に特化した医療機関であり、高い成果を出していることが報じられている記事を見たからだった。
 早速電話するも、この病院には外来患者が殺到しており、「不妊専門病院に治療歴があること、その病院からの紹介状があること」が外来受診の予約受付の条件であると言われた。
 5月の連休明けに前医(転医先その2)に出向き紹介状の記載を依頼。「外来患者の対応等で忙しいため、少し時間がかかる2週間程度はみてほしい」との話だった。ところが1ヶ月たっても連絡がなく、1ヶ月経過後に問い合わせると「まだ書いていない」との回答、急いでいるので早くしてほしい旨を伝え、紹介状が出来上がったと連絡があったのは1か月半経過後だった。紹介状を受け取るとき、私の不妊病名が「卵巣機能不全」と説明された。

6.転院先その3:県外(関東)の大学病院

 夏休みの2日目に受診した関東の大学病院での担当医は教授だった。初めて診察室で対面した担当医のとっつきにくそうな厳めしい顔に私は一瞬躊躇したが、これまでの治療歴について話すと、だまって頷きながら聞いた後、穏やかな口調で「妊娠の可能性はあると思います。一緒に頑張りましょう」と言ってくれた。不妊治療を始めて2番目に嬉しい瞬間だった。1番うれしかったのはもちろん妊娠して赤ちゃんの心拍が確認できた瞬間である。
 この病院までは、電車と地下鉄とバスを乗り継いでおよそ3時間の道のりだった。病院到着後も診察までは早くて1時間半、遅ければ2時間以上の待ち時間があった。
 月経周期等により、急遽通院日が決まることも多く、仕事は当然のごとく2の次3の次になってしまい、いつ入るかわからない通院日のために先の予定を入れられず、仕事は以前のようにはできなかった。治療前の7割程度しかできていなかったように思う。大学病院に転医する前は、通院日以外の日にその分残業して仕事を間に合わせていたが、人工授精後に残業したことで妊娠しかけていたのが妊娠に至らなかったことを教訓に、仕事は完全に打ち捨てて治療に専念することにした。つまり残業しないで仕事を残しても帰宅した。自分の身体の健康が妊娠率を上げることに繋がると悟ったからだ。だた仕事の評価は瞬く間に下がった。
 最後の大学病院受診期間には、理解ある女性が上司であったことから、職は追われずに済んだが、心の中では「どうして私は普通に仕事しながら妊娠できないんだろう」という葛藤が常にあった。
 2度の採卵、顕微授精を経て40歳で妊娠成立、41歳で無事男児を出産した。切迫早産、切迫流産を繰り返し、妊娠成立後も自宅療養や早期入院して出産に至ったが、このあたりのことはまた別の機会に書きたいと思う。


7.振り返って思うこと、過去の自分に言いたいこと

 当初は不妊原因がわからず、検査をしても「異常なし」という結果であったため、「たまたまタイミングが悪かっただけ」と過信してしまい結果的に本格的な治療開始が遅くなったこと、仕事を優先したことで治療そのものに真剣に向き合う時期が遅れたこと、が妊娠成立までの道のりを困難なものにしていたように思う。
 周囲に不妊治療をしていた人がほとんどおらず、治療をしたことがあった友人知人も治療開始後短期間で妊娠していたことから、根拠もないのに漠然と「自分もいつかは妊娠できる」と思い込んでいた。
 『自分の人生についてただ流されるままに生きるのではなく、「子どものいる生活」と「子どものいない生活」について、真剣に比較検討して考えることを早くしておくべきだったね』と過去の自分に言いたい。
 また、自己の不妊理由に特化した専門医のいる医療機関に早期に受診するのも大切だと思った。



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