捲る言葉
アルバイト先の休憩室で、橋本さんがとんでもない事を言い出しました。
「わたし、健康の為なら死ねるわ」
とんでもない理論です。健康の為に死んでしまったら元も子もありません。
命は大切にすべきです。その事を嗜めようとした私が、その言葉の裏側に気づけたのは、高梨さんのおかげでした。私は慌てて広角を上げます。
お気付きでしょうか?
橋本さんは健康の為には死にません。言葉の不条理で、この場に笑顔を産もうとしたのです。つまり橋本さんは、笑顔の母なのです。
楽しい空気を作ろうとした橋本さんの心遣いに敬意を表し、私は広角を上げました。笑う角ではつまらない話も面白くなるのです。
私には察する能力が備わっておりません。ですから言葉の裏側を覗く為に、『言葉を捲る』必要があるのです。
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ご挨拶が遅くなりました。矢作藍と申します。今年で16才になります。
両親を早くに亡くした私は、祖母に引き取られて育てられました。何不自由なく暮らしております。アルバイトを始めたのは、金銭的な切迫感からではなく、社会経験を積む為に他なりません。
「素直な子だね」
出会う人たちは決まって私にそう言います。両親にはそのように育てられていましたし、祖母も同じように接してくれました。
だから私は、その言葉を褒め言葉だと信じて疑いませんでした。実際にそのような意味で言われる事が殆どでした。
ですが、クラスメイトや先生が口にしていた『全く同じ言葉』には『全く違う意味』があったのです。
私にはわかりませんでした。
私が他人の言葉を真っ正面から受け止めてしまう事は、「素直」であり「ホントウザイ」ようなのです。
どうやら、私は人間として欠落しているようなのです。
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「冗談でしたよね?」
橋本さんが席を外したのを見計らって、確認をします。
「橋本さんだし」と高梨さんは言いました。良い意味なのか悪い意味なのか、私には判断がつきません。
言葉に裏側があるという事実を教えてくださったのは、他でもない高梨さんでした。
「ありがとうございます」と言っていても、小馬鹿にしていることもあるし、「自分たちの考えが甘かったです」と陳謝するYouTuberも「うぜーな」としか思わない事もあるそうなのです。
言葉の裏を把握する事によって、気を効かせたり、気を滅入らせたり出来るのです。
私がもしも人魚だったとしたら、目から鱗が落ちた事でしょう。クラスメイトも先生も、そんな技術を使い分けていらしたのですね。
「高梨さんはわかるんですか?」
「わかる時は」
「どのようにして理解するのですか?」
「理解って…経験?」
「経験ですか。一朝一夕ではどうにもなりませんね」
「そんな難しい事じゃないよ。言葉の裏を読むだけだし」
「どうやって捲るのですか?」
「捲る?」
「言葉の裏、ですよね?」
高梨さんは少し考えてから「ホント面白いね」と続けました。
面白い事など言ったつもりはなかったのですが、私の言葉も捲られたのでしょうか?
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休憩を終えた私は、品出しの作業に戻りました。売り場を確認して、在庫を補充する。心地よい単純作業です。
お客様との会話は多くありませんが、時折り質問される事はあります。
その日、常連のお客様が私に質問してくださいました。いつも決まって夕方の19時頃に来店されるのお客様です。汚れた作業着を着用されていることから、工事関係の方であると推測されました。
商品の場所でしたので、快くその場まで案内させていただきます。
翌日も、その翌日も、そのお客様は私に質問してくださいました。
そして4日目の夕方です。お客様は私の連絡先を聞いてくださったのです。
祖母の家の電話番号を勝手に教えて良いものか。私は迷いました。
そこで気付いたのです。
この裏側には何かがあるのではないか?
胸が震えました。言葉を捲るチャンスが訪れたのです。
私はお客様をしっかりと見詰めます。言葉を捲る為に、相手の顔色や呼吸を確認するのです。
私は男性を隅から隅まで確認しました。
作業着からは据えた匂いがします。今日だけの汗では無いようでした。洗濯をする時間も無いのでしょう。一人暮らしだと予想されます。
髪の毛と髭は伸び放題に伸びていて、鼻毛との境目を失っていました。気にする必要がないのでしょう。気にする時間が無いのでしょう。
肌質と少し白髪混じりの髪の毛から、30代後半であると思われます。
「あ、ダメだったらいいけど」
私が言葉を捲り終わる前に、次の言葉が繰り出されます。その言葉にも裏側が?
それを考えているうちに、「彼氏いるの?」と言葉が飛んできます。
私は降伏しようと考えました。次々と繰り出される言葉全ての裏側を理解するなど、私には到底出来ません。
「彼氏はいません」
私はなんとか最後の言葉に返事をしました。言葉の裏側どころか、表面の上っ面に対しての返答です。
男性は私の言葉を聞いて、ニヤリと笑顔を覗かせました。その笑顔から、男性がベビースモーカーである事と、歯科でのメンテナンスを行うことが出来ないほどに多忙であることが推測できました。
「バイト大変でしょ?」と、私を労ってくださった男性は「3でどう?」と紙幣を見せてくださいました。
「3」と口にした私の裏側には、「?」マークしか無かったのですが、男性はその短い言葉を捲り間違えたようでした。
「それ以上出せねーよ。ウザ」そう言って男性は踵を返します。
私は思いました。また「ウザ」と言われてしまいました。そんなネガティブな言葉を他人に向かって口にするなんて、なんて真っ直ぐな方なのでしょうか。私は彼を尊敬しました。
もしもお付き合いするなら、このような真っ直ぐな方がいいなと思いました。外見は好みとはかけ離れていましたが、少なくとも真っ直ぐさは素敵でした。
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高梨さんに感謝の言葉をお伝えしました。
高梨さんは、その場に居なかったにも関わらず、私の話からその男性が売春を持ちかけて来たのだという事を察したのです。
その場にいない人物の心まで捲るとは、高梨さんは何かしらの「スペック」をお持ちなのでしょうか?
「大丈夫?」と私を心配してくださる高梨さんに、私は迷わずに「はい」と答えます。
何が大丈夫かわかりませんでした。
男性の売春交渉は破談に終わりましたし、私は怪我もありません。
「家まで送ろうか?」
高梨さんはそう言ってくださいました。私は丁重にお断り致しました。高梨さんのご自宅は私とは逆方向です。
「けっこうです」
「心配だからさ」
「けっこうです」
「どっかメシ行かない?」
「けっこうです」
私は高梨さんの提案を丁重にお断りしました。食事は祖母と取ると決めています。
高梨さん程の言葉の達人ならば、説明不用でしょう。
さてさて。言葉を捲る為の日々は始まったばかりです。