はざまなわたし
レギンスを履いた女性が、駅へと向かっていた。
手持ちの荷物と服装から、トレーニング帰りである事が想像できる。ヒップラインを際立たせるそれは、いつの間にか街履きとしての市民権を得ていた。
山本綾乃は待ち合わせがてら、人間観察を楽しんだ。すれ違う男性の行動が面白いくらいに揃っていく。揃いも揃ってみんな、素知らぬ顔をしながら、視線でヒップラインを舐め回すのだ。
みーんな同じ。「その視線、バレてますよー」と、心の中でつぶやく。
男性には確認したくなる本能があるようだった。探求心と性欲の『はざま』の本能なのだろうし、仕方ない部分もある。きっとレギンスの女性もそれに気づいている。気づいた上で、着替えをせずに移動しているのだ。
自分のどこに視線が集まるか、女性はそれに敏感だ。私だって視線を感じている。自分で言うのもナンだが、私は可愛い顔をしている。
自分の意見ではなく、よく言われる言葉だ。自分で自分の顔を客観的に評価は出来ない。
1人の男性が私の顔をまじまじと見るのがわかった。顔を見られるのは苦手だったが、私は左眼を隠さなかった。
左眼の義眼に気付いた時の反応は、素直に驚くか、気付かぬフリをするかの二種類に分かれる。男性はそのどちらでもない反応を見せる。
「綾乃ちゃん?」と男性が口にして、「コーイチくんですか?」という私の問いに頷く。
どうやら彼がマッチングアプリでメッセージをやり取りした相手のようだった。
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先天性の欠損である事は、救いかもしれなかった。
『最初から』だから、慣れる必要がない。歯磨きを覚えた記憶が無いのと同じように、いつの間にか、義眼の外し方も洗い方も身についていた。
子供ならではの心ない言葉も経験した。辛くないと言ったら嘘になるかもしれないが、大人ならではのオブラートに包んだ『言葉の裏側』よりは幾分かマシだった。
その大人たちのおかげで、人と違う事を認識できたのかもしれない。
私は大人になるにつれ、健常者と障がい者の『はざま』を行き来するようになっていた。
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初めて恋愛のようなものを経験したのは、高校1年生の時だった。
アルバイト先のハンバーガー屋で知り合った大学生だ。特に好みのタイプでもなかったし、彼の事が好きだったかどうかは、今となっては疑問ではあった。それでも恋人たちがするような事をする事で、恋に似た高鳴りを感じていた。
大学生と別れた時、不思議と心が動かなかった。
彼の新しい彼女が健常者である事を知った時は、心が動いた。
恋愛のようなものが、のようなもので終わった理由。それを左眼のせいにはしたくなかった。きっとそうだろう。普通にすれ違い、普通に魔法が解けた。普通に、それだけだ。
自意識過剰。そんな言葉で簡単に片付けられはしなかった。
もしも私に左眼があったら、可愛い顔している『のに』なんて事は言われていなかっただろう。
そんな事を初めて思ったのは、西瓜に塩をかける理由が『甘味を引き立たせる為』だという知恵を知った時の事だったと思う。一緒に西瓜を食べた相手が誰であるかも覚えていないのに、その事だけは強く覚えていた。記憶なんてそんなものだ。
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孝一くんと入ったお店は、私がアルバイトしていたお店とは比べ物にならないほどお洒落なハンバーガー屋さんだった。
ピンで止められたハンバーガーを、見よう見真似で齧りながら、会話に花を咲かせる。
アプリで出会った相手と結ばれる確率はどれくらいなのだろうか? 意外と真剣な交際に発展するとも聞くし、そんな事は滅多にないとも聞く。
嘘みたいに楽しかったし、彼を素敵だと思った。だから彼の話に集中できないでいたのは、話がつまらないということでは無かった。
左眼の義眼に目ヤニがついているような気がして、気が気でなかったのだ。
嫌われたくなかったのだ。
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しゃくり。と音を立てて包丁を通した。
大きな西瓜の玉が2つに割れる。その片方にラップをかけて、もう片方を更に2つに切った。
皿に盛り付けた西瓜を孝一の元へと運ぶ。
「多くね?」という孝一の反応は、至極真っ当なもので、「なんで西瓜?」という疑問に直結した。とにかく今日は西瓜を食べたかった。
塩で甘味を引き立てた西瓜を口に入れながら、「子供が出来た」と報告するタイミングを見計らった。
ふいに鏡に目が行く。左眼の縁に目ヤニがあるのが見えた。
ああ、目ヤニだ。
そう思った瞬間に、喜びが込み上げた。
私は『報告』し、孝一はうれしそうに、目ヤニのついたままの私を抱きしめた。気付いてすらいないのか、気付いていないフリをしているのか。
涙混じりの孝一の顔を眺める。目ヤニが気にならないくらいに家族になれた喜びを感じながら、孝一の鼻から出ていた数本の暴れん坊さんに目がいく。
私は思った。
「鼻毛かよ、雰囲気台無しだな」と。
そして、「幸せだな」と。