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ツァラトストラ的に言えば「なぜ余は斯くも子供っぽいのか」について
幼少時代、転入生と友達になることが多かったわたしにとって、友達との別れはいつも突然訪れるものだった。
東京で青春時代を謳歌して育った両親のもとにうまれたわたしは、実家のある地方の土着的な雰囲気になじめず、
なんとなく自由な雰囲気を漂わせる家庭の子、
例えば大きな企業のサラリーマンとか、いわゆる「転勤族」の子息たちと真っ先に仲良くなった、ような気がする。
当たり前ながら、ある日突然
彼ら彼女らの父親が会社(や官公庁)から下される辞令とともに友達たちは去っていった。
前の日にひどく仲たがいしてお互いに気まずさの残る朝だろうと、
誕生日パーティーの免罪符のもと心ゆくまでTVゲームに明け暮れた日の翌日だろうと、
「孝輔くん…実はおとうさんが来月ね、」
そういう言葉をたずさえてあっさりと僕の郷里を去っていった。
わたしはと言えば、地元でちいさな事業を興した両親に転勤などあるはずもなく、
友達たちからの「さよなら」を何度となく
否応なく受け入れるしかなかった。
なぜなら、子供だから。
ほかにどうしようもないのだ。
そのせいかどうか、大人になった今でも、
友達というのは(自分や相手の意思をこえて)いつか突然いなくなるもの、
いなくなっても誰にも文句が言えないもの、
そういう運命論的な通奏低音が、あきらめのように心の底を流れていたりする。
わたしがSNSや現実社会で皆さんと結ぶ人間関係が刹那的なのは、そのせいなのかなーとか、そういうふうに思わないでもない。
毎回明確に意識しているわけではないけど、わたしの心の奥底には「この人と、いま仲良くなっておかないと、明日どうなるかわからない」
「明日どうなるかわからないのに、この人と、いま無理に仲良くする必要はない」
人間関係の構築段階における、そういう価値観があることを意識している今日このごろであります。
大人になって、どこに住んで誰と暮らすかを(基本的には)自分で選択できるようになっても、
そういう別れへの恐れ(もしくは安心)みたいなものが心の底を覆っているので
そういうわたしに対して、相手はたいてい、とまどう。
「どうしてこの人はこんなに性急に仲良くしようとするのだろう」あるいは
「どうしてこの人はこんなに頑なに人付き合いをこばむのだろう」とかね。
この人となら仲良くできる/できない、という判断の根拠はわたしの心のなかにしかないので、アステカの例の儀式のごとくわたしの心の臓を取り出して見せることができたらどんなに楽だろうかと、もどかしい思いをしたことは5回や10回ではないとだけお伝えしておく。
精神分析的に言うところの「見捨てられ不安」と「見捨てられあきらめ」の相克状態と言うか、
ヴェルレーヌ的に「見捨てられ不安とあきらめ、二つながらわれにあり」と言うか、
まぁどっちでもいいんですけど、かなり子供っぽいのは否めないと思います。
年齢を重ねるにつれ、たとえばお仕事においては、
人間関係に好悪を差し挟むフリはするけど、すべては駆け引きの材料と痛感するのですが、
こと友達とか恋愛とか、プライベートな人間関係だとここで述べている子供っぽさを露呈する部分がいまだにありそうです。恥ずかしい。
(ここで言ってることの学術的な信憑性は限りなくゼロに等しいので本気にしないでくださいね)
まぁあれですよ、ツァラトストラ的に言えば「なぜ余は斯くも子供っぽいのか」
ってな一章をさしはさむところですよ。
いやいや。まあまあ。なのでさくっと読んだら忘れてくださいな。