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ずっと痛いままなら良かったのに。あなたに時間薬をくれるのは本当に神なのか。
僕の左手親指の付け根には古い傷がある。
学生時代のある秋の朝、寝ぼけまなこで野菜を切っていた僕は包丁で自分の指をざっくりと切ってしまったのだ。
幸い大事には至らず、左手の親指は僕とサヨナラすることもなかったし、激しく痛みはしたものの2週間程度で元通り動くようになった。
ただ、神経を傷つけてしまったようで、外傷が治ってからも動かすと痛い。寒い冬に手袋をつけずにずっと外を歩いていると手がかじかんで、ジンジンと凍みるような痛みを感じるが、ちょうどあれに似た痛みを、指を動かすたびに感じる。もう二十年以上むかしの話だけど、いまだに1日たりとも痛みを忘れることがない。何人かの医者に見せたけれど、皆、バツの悪そうな苦笑いを浮かべただけだった。学生の分際で朝食に手作りの味噌汁を飲みたいと思って寝ぼけて包丁を握った代償は、意外に高くついてしまったのだ。
その一方、いいこともあった。
包丁でケガをすることがほとんどなくなった。
いまの僕は、子供になるべく手料理を食べさせたいとの思いから、平日でも土日でも、ほぼ1日1回は包丁を握る。フルタイムで仕事をしながらの料理なので、冷凍食品やカット野菜のお世話になる機会も多いのだが、何かひとつでも人の手で作った料理を食卓にならべたいと思う。だから頻繁に包丁を手に取るのだけど、当然ながら食材を支える左手に痛みが走る。
おいお前、まさか忘れたとは言わせねえぞ。おれをあんなに酷く痛めつけやがって。何年たとうと、俺の傷ついた神経は忘れやしねえ。二度と再び俺をいたぶろうなんて考えを起こさねえように、ここでこうして暴れてやるからな。おい、聞いてんのか。
もし僕の親指に思いの丈をしゃべらせたら、だいたいこんなセリフが出てくるように思う。こんな恨み言を毎回聞かされるのは堪ったものではないが、現に、あれ以来ほとんどケガもせず今に至っているのだからむしろ感謝すべきなのかも知れない。
ひるがえって(くるん)。
人は失敗から学ぼうと努力する生き物だけど、ついつい失敗を繰り返してしまう生き物でもある。なぜかと言えば、得したこと、おいしい思いや気持ちよさだけ覚えていて、引き換えに味わった痛みや辛さを忘れてしまうからだ。
自ら味わった痛みや辛ささえ忘れてしまうのだから、人に与えた痛みなどものの数ではない。
どんなに大切な存在であろうと他人は他人。ひとときの快楽や道ならぬ恋に溺れて大切な家族やパートナーを傷つけ、裏切った人間がここには大勢いるだろう。
あるいは激怒され大泣きされ、あるいは裁判や離婚をちらつかされ、二度といたしませんと両手をついて土下座したあの夜のことなど二、三年年も経てばどこ吹く風。ある者は怪しげなアプリに出入りし、またある者は手近な異性に色目を使い、色と欲におぼれた日々を取り戻すのに大して時間はかからないのが世の習いと言うものだ。
これらの愚行が繰り返されるのはすべて、失敗の痛みを忘れてしまうことに起因している。どんなに辛いこと悲しいことがあっても人は前を向いて、今日を生きていかなければならない。そのために神様が下さったのが忘却すること、すなわち「時間薬」と呼ばれるものだと言うが、果たしてそうだろうか。忘却とは本当に善いものだろうか。
戦争の痛み、人からものを奪われる苦しみ。病の苦しみ。別れの苦しみ。大切なお金やものを失う苦しみ。人は時間さえあれば容易にそれらの痛みを忘れて、原因をつくった自分の過ちを忘れて、また愚行を繰り返す。もし僕の親指の痛みのように、一生涯僕から離れることなく、包丁の扱いを誤ったあの日さながらの記憶を人間に刻みつけることができたなら、人間はもう少し賢い存在になれるのではないだろうか。それを、中途半端に忘れさせ、痛みから解放することで、再び愚行に向かわせるというのは、むしろ悪魔の所業のようにも感じられる。
今夜も麻薬中毒者のように時間薬を欲しがるあなた。あなたの手元に薬を届けるのは果たして神か、それとも悪魔か。