紺野登の構想力日記#01
構想力は「ゼロ」を生み出す力(その1)
2年前の2018年7月、『構想力の方法論 ビッグピクチャーを描け』(日経BP社)を出版した。知識創造理論(注:SECIモデル)で世界的に著名な経営学者、野中郁次郎氏との共著である。
そのときに未稿テキストが倍近くあった。300ページほどの本なので、およそ600ページ分の手稿があったことになる。それもそのはずで、この本の誕生までにはずいぶん年月がかかっている。
構想力は奥深いテーマだ。
その奥深いテーマをめぐり、野中先生と度重なる対話をおこなった。その対話をもとに、たくさんの手稿が生み出された。それらの手稿は、幾度かの書籍化の試みのあと、一冊の形ある本として編み出された。
本の作業の現場は、さながらテキストやイメージのバザールである。本にならんとするテキストたちの野心は、どの一節をとっても並々ならぬものがある。著者は、テキストを生み出すと同時に削ぎ落とす矛盾した存在だ。成仏していない没テキストが蘇ってくる。
出版から2年が経ち、今年になって、新型コロナウィルスがさまざまな影響をもたらし、先が見えない恐怖が社会の停滞を生み出している。未来へのリスクで、みな思考停止になっている。構想力の必要性をあらためて感じた。そしていまいちど考えてみたいと思った。
そこで、この「構想力日記」をはじめることにした。状況が日々移り変わるこのようなときには、日記という形式が適しているのかもしれないと思ったからだ。
2年前には戦いに敗れた未稿テキストが、いまも自宅のPCの片隅で、虎視眈々とリベンジの時機をうかがっている。この日記を通してそれらに光をあて、また本に納まった勝者たちにも更新再生のチャンスを与えようと思う。
最初は、「ゼロ」の話から。
◇ 構想力とは何か?
構想力を英語辞書で引くとimagination。想像力と同じだ。けれど日本語でいうところの「構想力」と「想像力」の間には、おおきな開きがある。両者はあきらかに違う。どう違うかと考えてみると、構想力というのは、想像するだけでなく、生み出す、創り出す、組み立てる力だ。
「構」というのは誰があてた字なのか(江戸期には構思という語があった)。想うだけでなく、組み立てる、に力点を置かれている。つまりそれは実践でなければいけない。
想像から派生する言葉に妄想や空想などがあるが、構想力はもとより妄想でも空想でもない。そこには人や社会の意思や願いが込められている。
では構想力とはなんだろうか?
よくイノベーションについて語るとき、「ゼロから1を生め」という。「無から有を生む」のがイノベーションだと。でも本当にそうなんだろうか? そんなことが本当にできるのだろうか?
「ゼロから1」とわれわれがいうとき、そのゼロは特に意味をもっていない。イノベーションが起きていない今の状態や、起こせていない自分たちのおぼろげな現状を、とりあえず「ゼロ」と言っているだけである。そしてどこからともなくやってくる「1」に望みを託す。この、どこからともなくやってくる「1」が問題(イノベーション)だというわけである。
けれども本当に大事なのは「ゼロ」のほうだ。
「ゼロ」のほうが大事とは、いったいどういうことか、と思われるかもしれない。そのことについて考えてみよう。
◇ iPhoneの考古学
構想力とは「存在しないものを存在させる力」である。
『構想力の方法論』では、次のように書いた。
ここで大事なのは、「存在しない」とか「まだない」ということである。そういう「不在」や「無」が、構想の原点となるということが言いたかった。
たとえばiPhoneやiPad。両者ともにカタチになるはるか以前に「元祖」があった。それは、アップルの研究開発ユニットから生まれたゼネラルマジック社のアイデアで、カメラとページャーを掛け算した「何か」だった。彼らは、現在のスマホにほぼ匹敵するようなものを構想していたが、1990年当時、そんなものは片鱗さえ存在していなかった。
そんなものはない、そんなものはできない、という無(夢)に向かって、彼らは大企業を集め、プロトタイプをつくった。そして、ビジネスとしては大失敗したのだった。
その後、ゆっくりとインターネットがやってきた。さらにずいぶん時が経って、その無が満たされた。2007年のiPhone誕生である。
よく、何かを着想したりアイデアがひらめいたりしたときのことを、「無から有を生んだ」と言ったりするが、「無から有を生む」なんてことはそうそう簡単にできるものではない。至難の業、いやそれは神業である。たいていの場合、あとづけてそう表現しているだけだ。
構想力とは、無から有を生むことではない。
そうではなくて、「無」を発見し、「無」を見いだすこと、いったい何がないのかを示すこと、それが構想力の源泉なのだと思う。無は、「不完全さ」と言いかえてもいいだろう。
発見され、見いだされた「無」から、いろいろなものが見えてきたり、動きだしたりする。そうしてだんだんとその無や不完全さが満たされていく。そしてあるとき、機が熟したかのように、それまで存在しなかったものが存在するようになる。
この考えは、神経生物学、進化人類学のユニークな研究で知られる米国の神経学者テレンス・ディーコンから引き継いでいる。ディーコンの言説はなかなかに難解である。一筋縄ではいかない。けれどその自由な着想がずば抜けておもしろく示唆に富む。
次回は、ディーコン博士の考えに切り込んでみようと思う。(つづく)