私たちが知っていることは正しいのか?
イノベーション経営時代のナレッジマネジメント再構築 --- Part 3 知識論をめぐって-1
「知っている」って何でしょうか?
私たちは「ナレッジマネジメント(KM)」について語っていますが、そもそも「ナレッジ」、つまり「知識」とは一体何なのでしょうか?
知識が今日の経済において重要な資源であるということは、経営学者P.ドラッカーが半世紀以上も前に指摘した通りです。今では、知識が経済価値の源泉であるということに反対する人はほとんどいないでしょう。個人やその集合体である組織が有効な知識を記憶し、活用、創造することで社会的価値や利益を創出することが、ナレッジマネジメントの核心にあります。その最新の動きがAI、つまり知識を生み出すプロセスそのものに価値を見出そうとしているのです。
知識は、無形資産(インタンジブルアセット)として、多岐にわたる形態を含みます。ノウハウや熟練した技能、顧客の経験、ブランド、プログラム、知的所有権(IP)、さらにはAIのプラットフォームまで、これらすべてが知識として捉えられます。たとえば、ブランドも知識の一つです。消費者やユーザーがブランドを知識として理解し、それが信頼につながることで価値が生まれます。
それでは、私たち(あるいは組織が)「何かを知っている」とは一体どういうことなのでしょうか?この問いが明確でなければ、ナレッジマネジメントそのものの基盤が揺らいでしまいます。
記憶と知識の関係
私たちが「何かを知っている」というとき、それは「記憶」に深く結びついています。何を知っているのか、そして意識しているのか?記憶には、以下のように大きく2つの種類があります。
陳述記憶(Declarative Memory)
意味記憶(Semantic Memory):事実や知識に関する記憶。例:「地球は丸い」「東京は日本の首都である」「カントは哲学者である」。
エピソード記憶(Episodic Memory):個人の体験や出来事に基づく記憶。例:「昨日夕食に何を食べたか」「旅行の出来事」「家族の記憶」。
陳述記憶は、認知症の進行によって失われやすい特徴を持ちます。
手続き記憶(Procedural Memory)
言語化されない非陳述的な記憶で、身体動作や技能に関するものです。例:「自転車の乗り方」「ピアノの演奏方法」「漬物の作り方」。
手続き記憶は、しばしば自分で意識していないのに知っている、ということもありえます(陶芸やってみたらできちゃった)。
またこの種の記憶は認知症が進行しても比較的残存しやすいことが知られています。
意味記憶は概ね言語的です。言語で示せます。「形式知」です。手続き記憶は概ね「暗黙知」ですが、部分的に言語化もされています。
以上のような記憶の種類と知識のタイプで私たちが「知っている」、ということが示せます。そしてこういった記憶は私たちの脳の部位の役割にも対応して考えられています。
脳と記憶
記憶を保持し処理する脳の部位とその働きには以下のものがあります:
海馬(Hippocampus):短期記憶を長期記憶へ移行させる役割を担い、記憶の中枢として機能します。海馬には場所細胞というもののあって、空間把握と知識の記憶を司ります。
前頭葉(Frontal Lobe):意思決定やエピソード記憶の保存を司り、知識を活用し行動につなげます。
側頭葉(Temporal Lobe):意味記憶の保存を行います。
大脳基底核(Basal Ganglia):手続き記憶に関与し、身体動作の学習や熟達に重要です。
小脳(Cerebellum):運動学習や技能記憶を管理します。
特に手続き記憶は、大脳基底核や小脳に保存され、海馬の機能が低下しても比較的影響を受けにくいという特徴があります。これが、認知症者が長年の技能や習慣を維持できる理由です。
それって本当に本当ですか?
しかし、ここでもう一つの重要ポイントがあります。私たちが「知っている」と思っていることって、本当(真)でしょうか?
間違った事実や法則を迷信のように信じ込んでいたり、洗脳されたり刷り込まれていたりはしないだろうか?こうした知識が真なるか否かは、伝統的な哲学(知識論)のテーマでした。
JTB(Justified True Belief)の破綻?
私たちが本当にあることを「知っている」と言うためには、その知識が真(true)であり、自分に信じられていて(belief)、正当化されている(justify)必要がある、という形式で説明されてきました。
たとえば、「パタゴニア社の製品は悪天候でも役立つ」という信念を持つユーザーが、その信念を実際の使用体験で確かめる(厳冬のキャンプで命拾いしたとか)ことで、その知識(ブランド)が価値(これって真だ!パタゴニア、すごい)を持つことになります。
この3条件は、哲学者プラトンの著作『テアイテトス』に端を発する伝統的な知識の定義、JTB(Justified True Belief:正当化された真なる信念) に基づいています。これが長らく「真」だと、つまり知識の基礎づけとして信じられてきたのでした。
信念(Belief):その内容が信じられていること。
真理(True):信じている内容が真であること。
正当化(Justified):その信念が十分な証拠や論拠によって真実たる理由、裏付けがあること。
このJTBが(J)かつ(T)かつ(B)の場合に、そして、その場合に限り、その命題は知識たるものになるというものです。JTB=Kということです。
伝統的知識論の限界と現代の課題
しかし、ここで事件が起きるのです(プラトンから2500年くらい経ってますけど)。
1963年、マサチューセッツ大学アマースト校の哲学者、エドムント・ゲティア(エドマンド・リー・ゲティア3世)は後に「ゲティア問題」と呼ばれることになる、3ページの論文「正当化された真なる信念は知識か」("Is Justified True Belief Knowledge?")を発表します。
明らかに、知識そのものは重要なのですが、それがいつでもJTBの形式で証明されるわけではないとゲティアは考えました。例えば、正当化された真なる信念であっても、正当化が偶然の要素による場合には知識と呼べない状況(ゲティア・ケース)を提示したのです。
ゲティアは、こうしてJTB説の知識の捉え方を否定してしまいます。この「JかつTかつBの場合に、知識を持っている」という命題が、真になるとは限らないという反例で、JTBの限界を示しました。
実はその後、哲学界では大変な議論が長らく続くことなるのです。そして今でもはっきりした結論は出ていない、と考えられます。
ではゲティアはどんな反証を出したのか?については、「続き」(part-2)で紹介します。
しかし、筆者の思うのは以下のことです。
現代のフェイクニュースやポストトゥルース(客観性よりも主観性が価値を持ってしまう時代)の時代には、こうした知識の正当性がますます問われる(疑問視される)ようになっています。政治やビジネスの世界でも、「僕(私)がこう思う」というメッセージや著作などが飛び交っています(自分も反省)。客観性が疑われる場合もしばしばです。これにはSNSやAIなどの台頭も影響を持っています。単に何かを「知っている」(記憶している、知識を持っている)ということだけでは知っていることにならない。
こうした「知識とは何か?」という問いは、企業のナレッジマネジメントだけでなく、経営や社会(特に政治やジャーナリズム)の根幹(信頼)に関わる問題です。ゲティア問題はその意味で予言的なエポックでした。
次回(Part 2) に続きます。