代々木八幡 今昔語り
はじめまして。
東京都渋谷区・代々木八幡で平成の初めより不動産・建築業を営んでおります森口公晴と申します。不動産鑑定士です。
新型コロナウィルスの登場で、私たちの生活は大きく変わってしまいました。先の見通せない中、世の中は大きな分岐点に差し掛かっているのではないかと考えるようになりました。これまでの仕事や生活を振り返り、自分の考えや経験を少しでも共有できればと考えています。
「代々木八幡」に生まれ育つ
「奥渋(おくしぶ)」ってご存じでしょうか。
不動産業を営んでおりますから、最近は「『奥渋』に物件はないですか」と、尋ねられることが増えました。
※「奥渋」とは「奥渋谷」の略。東京・渋谷の奥座敷とされている場所で、富ヶ谷・神山町・宇田川町といったエリアを指す。最近、新しいショップや飲食店が多く進出している。
私は、代々木八幡に生まれ、地元のシオン幼稚園、冨谷小学校、代々木中学校を卒業しました。その頃は当然、「奥渋」なんて言葉はありませんでした。
今から10年前に出された富谷小学校80周年の同窓会会誌
かつての代々木八幡を、いきいきと描いた記事が多く掲載されていました。
50年程前、この辺りは「原っぱ」が多く、子供たちは皆、外で遊んで、缶蹴りやコマ回しを楽しんでいました。
地下鉄・千代田線「代々木公園」駅もありません。買い物と言えば、代々木八幡駅から小田急線で新宿に行くのです。
代々木公園に隣接する街
代々木公園は、戦前は帝国陸軍の練兵場でしたが、戦後接収され在日米軍住宅「ワシントンハイツ」となりました。「ワシントンハイツ」に面した場所には、日本人の住む家屋と商店があり、飲み屋街、パチンコ屋、職人の家と、間口の小さな建物が建ち並び、私の記憶に残る下町・代々木八幡の風景となったのです。ワシントンハイツは東京五輪を境に返還され、今の代々木公園となりました。
右写真:オリンピックの頃の現・代々木公園(三幸エステート発行誌より)
千代田線が通り、「代々木公園」駅ができたのは昭和47年。
バブル期には、井の頭通り、山手通り周辺にマンションが次々と建てられました。
坪数千万円という土地がやり取りされる時代を経て、バブル期は、代々木八幡周辺を、いわゆる「一等地」に育て上げました。
落ち着いた雰囲気の代々木公園横の通り
「土地の記憶」が残っている街
バブルが崩壊し、アベノミクスが始まるまで、高騰した地価は少しずつ下がりました。
都心でも大規模な再開発は行われていましたが、代々木八幡周辺は再開発には馴染まない環境だったため、大きく様変わりはしませんでした。
そのため、昔から住む「土地の記憶」を持った人が追われることなく、今も多く暮らしています。
代々木八幡は、古くからある「代々木八幡宮」を中心に、「土地の記憶」を継いでいる都内でも数少ない土地なのかもしれません。
商店街の方が、記憶を頼りに描いた代々木八幡駅前地図(昭和13~20年頃)
街は、大手のフランチャイズやチェーン店が軒を連ねるのではなく、個人店が積極的に出店し、街並みを形成しています。訪れる人も、まるで宝探しでもするように各店舗をまわり、店前に行列を作っています。他の町とは異なる空気を、多くの人たちは新鮮に感じるのかもしれません。
昨年、小田急線代々木八幡駅の駅舎が新しくなりました
代々木八幡という土地が脚光を浴びるようになったのは、ここ10年~15年。
生まれ育った町が変化していく様子を、ずっとこの目で見てきました。
自分自身、何度か他の土地に引っ越したこともありましたが、不思議なもので、また引き寄せられるように代々木八幡に戻ってきました。
今日のにぎわい方や、人の集まり方を見るたびに、
人を引き寄せる「何か」をこの町に感じるのです。
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