未来に残したい風景日本最初の宮跡 藤原京
106年(大正8年)前に発行された愛読書の「和辻哲郎著古寺巡禮」の藤原京の描写では、
「右に畝傍山、香久山、左に耳成山その愛らしい小丘の間を汽車は馳せて行く。
古の藤原の京、飛鳥の京の舊跡は指呼の間に横たわってゐた。奈良とはまた異なった緩やかな景色で、そこにこの土地の塾愛した祖先の心も讀まれる思ふ。
香久山の向うのあの丘の間に多くの堂塔の聳えてゐた時代もあった。そこで推古、白鳳の新鮮な文化は醸し出された。さらに遡れば、傳説の時代のわれわれのC祖先のさくざまな愛と憎しみが、この山と川に刻み込まれてゐる。
この地が特にやまとであったといふこと、日本民族の著しい特質とは密接な関係をもつらしい。」と、藤原京跡の印象が書き残されている。
藤原京は、694年(地頭天皇8年)に飛鳥浄御原宮から宮を遷し藤原京は成立した。 以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があった。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。
現在、宮跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍山、北に耳成山を望める。
万葉集に当時の都を読んた和歌が残されている
やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大き御門に 春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山(みずやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨の 青菅山は 背面(そとも)の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはしき 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける 高知るや 天の御陰(みかげ) 天知るや 日の御陰の 水こそば 常にあらめ 御井の清水(みいのすみみず) 藤原宮の御井(みい)の歌 作者未詳
藤原京は、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、12条8坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた[4]。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都である。
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