読書録 カズオ・イシグロ 日の名残り
1.イギリスの階級制度
この作品には、当時(1956年スエズ危機の頃)のイギリスの階級制度が色濃く反映されている。当時のイギリスは立憲君主国であり、現在でも(発刊当時)エリザベス女王を頂点として、階級制度が存在している。
この制度の存在はイギリス国民の誰もが意識しており、異なる階級同士の関わりはほとんどないことが特徴です。スティーブンスの仕事である執事も、イギリス階級制度のなかに組み込まれた伝統的な職業である。
上流階級の人々が郊外に構える広大な邸宅には、家令を筆頭として執事、料理人、従僕、下男、庭師など男性の使用人の他にも、ハウスキーパー、レディーズメイド、乳母、メイドなど、女性の使用人も存在していました。この作品の執事であるスティーブンスは、家のことを一切任される家令の役割も兼ねた執事として描かれている。
2.ノーベル文学賞
カズオ・イシグロは、2017年にノーベル文学賞を受賞した。日の名残りのストーリーから読み取るテーマ、作者の伝えたいこととはなにか、ノーベル賞に選ばれる人物は、「文学の分野において理念をもって創作し、最も傑出した作品を創作した人物」とされている。そしてこの作品の受賞理由は「世界とつながっているという幻想的な空間にひそむ深淵」と評価されています。文学の新しい「理念」の創作に成功した。ともある。
この小説の値するのは、さらには帝国主義時代を思わす階級社会の描写もありその一部始終の時間的構造である。まず新しい雇い主であるアメリカ人がイギリス旅行を勧めてくれるところからはじまってスティーブンスの旅がはじまる。作品の随所にその描写はありこれにより物語を展開させている。
例として上げると「四日目―午後」コーンウォール州リトル・コンプトンにての章では、ミスケントンに再開する様々な思いが心のうちに湧き出てきてそれを抑えきることは私にとうていできませんでした。牧草地沿いに思い切りスピードを出しながらそれでも注意深く走らせながら、私は過去のいくつかの思い出を心の中に再現し続けました。そして今リトル・コンプトンに到着し快適なホテルの食堂にすわり降り続く雨を見ながら時間を潰そうとしておりますと心はまた昔に戻りがちになります。と過去のダーリントンハウスの日々を鮮明に回顧する。
そしてコラムニストカーディナルとの会話ではさらに戦時中のダーリントン卿について、「理解出来るかだってスティーブンス? 僕らは友達だ、だから率直に言わせてもらうよ。この数年間というものはねスティーブンス、卿はヘル・ヒットラーがイギリスの国内に確保している最も有用な手先だったんだ。プロパガンダ専門の傀儡さ。卿は誠実で高潔な紳士だ。自分は本当に何をしているのか卿にはわからない。だから余計にいいんだ。この3年間だけで60人・・・何の数字かわかるかなスティーブンス。卿の働きがけでベルリンとの間に密接な関係をもつにいたったこの国の有力者の人數さ。ナチにとっちゃ、こたえられんだろうよ。
ヘル・リッペンドロップには、イギリス外務省なんて存在しないのも同じことだ。さて、ニュルンベルグ決起集会も終わったし、ベルリン・オリンピックも終わった。今度はなんだ?やつらは卿を使って何をたくらんでいるか? いまあの部屋でなにか話しあっているか?君にはわかるかい。スティーブンス。
と現在から過去へ赴き、過去から大過去へとさかのぼり現在に引き返したりする入り組んだ時間の扱い方は見事な展開を見せてくれ読者は巧みな話術に引き回されながらつい時間というものを存分に意識するようになりそのあおりで、
この執事の生きている言わば私的な時間はもっと公的な時間である歴史のなかに包含されていてその公私双方の時間をたくみに語っている。カズオ・イシグロは格式あるイギリス小説に新しい流れを創り出したのは時間というものの優雅な語り方だった。
この物語のなかでカズオ・イシグロは、第2次世界大戦から戦後へと価値観が大きく移り変わっていくイギリス社会を、スティーブンスという執事の視点から描いている。イギリスは、第二次世界大戦とともに階級制度が形式上は解体されている。そんな様子も、本作のなかでは描かれている。
書中、数多くの名言が残されている。引用すると、私どものような人間は、何か真に価値のあるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分である。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となる。
これは、スティーブンスが仕えていたダーリントン卿の言った言葉で。真に価値のあるものに対して少しでも尽くそうと願いそれをするだけで十分に価値があるのだということを再認識させてくれる。
さらにスティーブンスは、次のようなことを述べている。どこの誰に生まれついたって、金持ちだって貧乏人だって、みんな自由をもっている。自由に生まれついたから、意見も自由に言えるし、投票で議員を選んだり、辞めさせたりもできる。それが人間の尊厳であり品格ってもんですよ。人間は階級によって縛られた存在ではありません。自由な存在なのです。だからこそ意見も自由に言えるし、選挙の投票もできるし、議員を辞めさせることもできます。自由こそが人間の尊厳であり、品格であるということを伝えた言葉です。
3.日の名残りにおけるイギリスの歴史
もう一つ、この小説の物語の軸となっているのがダーリントン・ホールでの政治的なイベントです。物語が進むにつれて、ダーリントン卿はナチス・ドイツに協力し、戦後は名声を失ったということがわかる。日の名残り の中で起こる出来事(ダーリントン・ホールでの会議など)がどのように実際の歴史上の出来事と結びついているのかを検討した。
また、日の名残りでは、英国の帝国主義の解体をも描いている。ダーリントン卿の没落、戦後のアメリカ人富豪ファラディによるダーリントン・ホールの買収など、確かに日の名残りは単に大英帝国の斜陽を描いているのではなく、それを遠景としつつ、歴史に翻弄されながら自らの人生を生き、そしてそれが間違いだったと認めざるを得なくなった一人の人間の姿が重要なのだと作者は述べている。
丸谷才一氏の語るようにカズオ・イシグロは歴史的な人物ではなくごく普通の男の人生論的探求というか知の探求を描くという視点の小説の離れ業をきれいに見せてくれた作品である。
歴史上の出来事と小説に登場する出来事を照らしてみると、「偉大なる大英帝国」の象徴であった古き良き時代のイギリスであり、第2次世界大戦へと向かっていくヨーロッパ全体の歴史、そしてその後の世界の変化、民主主義の理想とその弱点、ナチスドイツのような全体主義に対する個人の力の限界、イギリス人とアメリカ人の性格上の違いなど、さまざまなテーマが重層的に描かれている。そんななかでスティーブンスは、「尊敬される執事とは?」「人間として身につけるべき品格とは?」という問いを突き詰めている。
作者は、現代のマスメディアやツィッターやフェィスブックなどのその場の思いつきで欲求不満のはけ口を付和雷同の仕組みの環境システムやのどかで愚かなポピュリズムに巻き込まれず人間としてどのように生きるべきかという自らの意思で直視し考えるということでこの作品を完成させている。
それがためノーベル賞受賞選考評にあるように「世界とつながっているという幻想的な空間にひそむ深淵を作品に秘めさせ文学の永遠のテーマである普遍的な人間の生について書いているという壮大な理念が作品のテーマとなっている。
さらには語りのリアルさは現在作家にとうてい見られない高度な次元で高度な作品構成を持って表現する作家でもある。
日の名残りを読み、最近遠ざかっている愛読していた高度な文学である英国小説、オースティンの高慢と偏見 エミリ・ブロンテ嵐が丘 ディケンズのオリァ・ツイストなど再読したくなっています。
最後に、現代小説が極端な事件や出来事をテーマにストーリーを展開する傾向に辟易したていたが、日の名残りを読んで、久しぶりに心にしっかり静かに作品のスパらしさが染み込む感覚が得られた。