小倉山山麓 厭離庵 藤原定家時雨亭跡 小倉百人一首 編纂の地
通いなれた道である。嵯峨野の古刹宝筐院を出て北に向かい西に折れ中院山荘跡を通ると奥深くに竹藪を背景にしてささやかな寺門が見える。藤原定家の小倉山荘跡と伝えられている厭離庵である。
定家卿
見渡せは
花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの
秋の夕暮れ
駒とめて
袖うち払ふかげもなし
佐野のわたりの
雪の夕暮れ
鎌倉時代の歌聖定家卿は応保二年(1162年)に生まれ仁治二年(1241年)に80歳で没す。新古今集、小倉百人一首新勅撰和歌集の選者である。
時雨亭
小倉山しくれの頃の
朝な朝な
昨日はうすき
四方の紅紅葉
六世常覚尼が茶道を志、定家卿の歌に因んで、定家卿の山荘時雨亭再興の意を踏まえて大正12年茶席時雨亭は、数寄屋大工岡田永斎により建てられた。
四畳向切、床は枡床、塗りがまち、書院窓に文机あり、桂離宮より模す。と記されている。
「時雨亭跡」については、諸説あり 常寂光寺のパンフレットでは
嵯峨に時雨亭三ヶ所あり、・二尊院・厭離庵これなり。
いずれも定家山荘跡とうたい、後世好事家により造営されしもの、その跡なり。
昭和10年代には国文学者の考証ほぼ出揃い、定家の造営せる小倉山荘跡は常寂光寺仁王門北、即ち二尊院南にして、厭離庵近辺は定家の子 為家の住みし中院山荘跡なりとする意見が大勢を占めるに至る。・・・・・と記されている。
一般公開はなされず 七百年過ぎた園内は楓字樹は新緑、紅葉と季節を彩り京の名庭に数えられている