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厭離庵 時雨邸  藤原定家小倉百人一首編纂の庵 

厭離庵山門

厭離庵の歴史は、庵より頂いた資料には小倉山の麓なる厭離庵は京極黄門定家卿(藤原定家)が住みし山荘の旧跡である その后久しく荒廃せしを冷泉家が修復し霊元法皇から「厭離庵」の寺号を賜り安永元年(1772年)、臨済宗天竜寺派となり霊源禅師により開山した
明治維新後再び荒れ果てたが 明治43年 山岡鉄舟の娘素心尼が住職に就き尼寺となるがその後男僧が入山し現在に至っている と記載されている

2018年 京都の寺社は台風18号により大きな被害が発生した 厭離庵も山門が損傷した ことも知らされていたが未だ拝観できずに過ごしている

苔むす庭園は秋季のみの公開で園内の楓樹は新緑も紅葉も季節を彩り京都の名庭に数えられている 新緑の頃の拝観は望んではいるがいまだかなえられない

定家卿を偲ぶ五輪の塔 定家塚 樟の化石の橋 織部灯籠等が配置され格式のある風情が漂っている
本堂には如意輪観音像 開山霊源禅師 西行法師 家隆卿 貫之卿の木造像 定家卿 為家卿 為相卿の位牌が安置されているが 室外から拝謁したが拝謁したことがない 


日本の原風景の冠木門と園内の紅葉と組み合わせて庭の風景の撮影をすることが
    とても楽しみでした                               

嵯峨野の厭離庵は、大正時代の歌人西川百子は
嵯峨の秋としてきけば、世にしのびなき麗人が浅茅が原に打ち倒れて宿世の縁をさめざめと泣いてゐるような姿がと 厭離庵の佇まいを絵に書かれたような美しい言葉で描写している 

 このとき 幕末の幕臣 鉄舟山岡鉄太郎氏の姫素心尼が住職に就き尼寺となっていた 作者は素心尼に心惹かれ訪ねあて美しい尼僧とようやくあった そのときの場面を
面長の色の白い明眸の持ち主であった 痩せぎすの身に染衣をまとふて うそ寒い庵の中に座っている姿が痛々しう思われてならなかった。年は三十をいくつか越していた

厭離庵の秋の風景と素心尼の機鉾の鋭い美しい尼僧を表現している 
 時雨亭は藤原定家の小倉百人一首編纂の庵でもあり、平安文学に一時魅せられて源氏物語 古今集 新古今集等をよみ、小倉山の麓の歴史が偲ばれるこの地 厭離庵が拝観可能な紅葉の時期に五度も訪れている

それは京都御所に接して重要文化財冷泉家住宅は、公家屋敷として現存する唯一の公家屋敷です 幸いなことに仕事の関係で冷泉家には入室できないのですが三度訪問して室内を案内していただき資料もいただいている。平安王朝の和歌の原点の地で学びその歴史を知るためであった

冷泉家は平安、鎌倉の歌聖と仰がれた藤原俊成、定家父子を祖先に持つ「和歌の家」である。冷泉家に伝来する典籍類は、俊成、定家以来八百年の歳月を経て時雨亭文庫として現在に伝えられ、国宝5件、重要文化財47件を始め、その数は数万点に及ぶとのことである。

古都京都は、安元の大火 応仁の乱 宝永の大火 天明の大火 近世では蛤御門の大火と平安時代から明治時代まで戦乱が多発して大火が発生しているが冷泉家には、戦乱や明治時代には海外へ膨大な量の文化財が流失したが その被害に会わずして 日本の文化財として貴重な文献国宝5件、重要文化財47件を始め、その数は数万点に及ぶ典籍が現代まで保存されていることを知らされた
文人や多くの心ある人々から愛されいてきた日本の文化の奥深い格式の高い秘めた原風景を永久に残したいものだと知って頂きたいとも考えながら書いている






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