父の存在
今回は前回にも書いたように父の話になります。
自分の話は多くありませんが、少なからず血は受け継いでいると思うので読んでみてください。
では本題へレッツゴー!!!
田舎生まれ田舎育ちの父
父が生まれたのは愛媛県愛南町という県最南端の町です。豊かな海と山に囲まれた自然豊かな町です。遊ぶところはほとんどなく、自然の中で遊んだりしていたみたいですが、やっぱりサッカー漬けの日々を過ごしていました。
小さな頃から変わらないメンバーでサッカーをして、そのまま高校に上がるくらいの流れでした。
県内最強南宇和高校
しかしその時父の進学した愛媛県立南宇和高校は当時強豪で県内最強の時期でした。
父はメンバーに恵まれ、心強いメンバーとともに全国を目指して練習に励んでいました。
南宇和高校は全国高校サッカー選手権愛媛県大会優勝17回(うち1986年〜1989年、1992年〜1996年まで2回にわたり5連覇達成)。1982年〜1993年まで県総体12連覇。1992年、1997年、高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会ベスト4。
と県内だけでなく全国でも好成績を残していた全盛期でした。
父のいた間はインターハイ選手権共に全て全国大会に出場し、3年生で望んだインターハイは3位、第68回全国高校サッカー選手権大会では四国初となる全国優勝を成し遂げました。(今でも他に四国で優勝した高校はまだないみたい)
父は10番ボランチとして、チームの躍進に貢献しました。
高校サッカー選抜として南米遠征に行ったらしい、、、
すごっっ。。。
その後は大学に進学し、まだJFLにいた愛媛FCに入団しプレーしましたが、自分が生まれた年に引退を決断しました。
サッカー漬けの日々
そんな父の影響で、兄もサッカーを始め、僕が立てるようになった時にはもうすでにボールを蹴っていたらしいです。
物心ついた頃には毎日のようにサッカーをして過ごしていました。
学校に通い始めても、父に仕事があっても、土日は毎週父と兄弟3人で近くの公園やグラウンドでサッカーをしていました。
兄弟でシュート対決をしても、一対一の練習をしてもいつも喧嘩になって、誰かが泣いて帰るまで終わらないような日々でした💦
兄が高校に入って忙しくなると弟と父と3人で蹴っていました。
とは言っても、いつも蹴っていると知り合いみんな集まるようになり、連絡なしでもグラウンドに行けば誰かがボールを蹴っているような状況でした。
そんなこんなでずっとボールを蹴っていましたが、シュートなど好きなことをしていたため、サッカー歴の割に今でも下手くそなんですけど、多少上手くはなっていたと思います。
今となってはあの時からもう少し別の練習をしていたらなぁと後悔している部分もあります笑
そんなこんなで全国制覇を成し遂げた父の姿を映像で見たり、友人のお父さんたちから聞いたりして憧れを持つようになりました。
「いつか自分もあの舞台でプレーしたい。」
そんな目標を抱きながらひたすらボールを追いかけていました。
名波浩さんと友達🤝
昔からよく対戦することが多く長年の付き合いで名波さんたら仲良くなったらしく。いまだにたまに連絡を取っているらしいです。
昔名波さんが監督をする前に講演会で愛媛に来ていて、お父さんが連絡を取り空港でお茶をしたことがありました。
その時に名波さんに色々なことを教えてもらいました。
テレビの前でしか観たいことない人に教わることは全てが衝撃的でした。
「リフティングはいらない。だって、試合中に使わないでしょ。」
名波さんはリフティングが苦手だったらしくこのように捉えていたようです。
しかし、間違えてはいけないのはいらないとは言っても、あるに越したことはないということです。
間違いなくボールタッチの感覚は養われる練習であるし、上手くなる練習であることは間違いないです。
リフティングの練習ばかりをせずに他の練習もしなよ?というニュアンスだったと思いますが、当時の自分はリフティングはしなくていいと言われて舞いあがって喜んでリフティングの練習をしなくなりました笑
その結果がこの足下の技術の低さですね。
地元では有名人?!
そんな自分のお父さんは地元愛媛県では
通称『愛媛のジダン』
と呼ばれ、当時世界的に活躍していたジダンに例えられていました。
地元愛媛県のお父さん世代のサッカー関係者では知らない人はいないほどだったとか、、、、
正直その影響で「あの黒田の息子」と言われるのはあまり好きじゃなかったんですけどね笑
次回予告
次はまた自分の過去の話に戻ります!
小学校と中学校のスクールの話です。
今ではありえないような指導法だったので、初めて聞く人はびっくりすると思いますがぜひお楽しみに!!
明日から冬休み!
楽しんでいこー!
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